Amazonでジャン ボベロ, Baub´erot, Jean, 信孝, 三浦, 聖伸, 伊達のフランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ)。アマゾンならポイント還元本が多数。ジャン ボベロ, Baub´erot, Jean, 信孝, 三浦, 聖伸, 伊達作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。 19世紀初めごろまでフランスは 宗教 と公的機関である. ジャスミン男 2015/01/23 23:46. フランスにおける政教分離の原則は、「ライシテ」と呼ばれています。 Découverte des institutions - Repères - Vie-publique.fr, “Quand les intellectuels quittent la gauche, la droite Figaro jubile”, https://www.challenges.fr/politique/quand-les-intellectuels-quittent-la-gauche-la-droite-figaro-jubile_56922, Loi du 9 décembre 1905 concernant la séparation des Eglises et de l'Etat. その歴史的経緯から、国民の信教の自由を保障することに重点が置かれ、後述するフランスと比較すると、宗教が政治に関わることに比較的寛容なのが特徴です。 フランス. )」の活動に参加した後、ペルシア語のウェブサイトを立ち上げ、イランで最初のLGBT向けラジオ局に参加したスーデー・ラッド (Soudeh Rad) など[90]、フランス国外のメディアではほとんど取り上げられることのない女性活動家を挙げることができる。, エマニュエル・マクロンは大統領に就任して以来、ライシテについて明確な姿勢を示していなかった。マクロン政権下で最初に積極的なライシテ支持を表明したのは男女平等担当副大臣マルレーヌ・シアパであった。「ライシテ・フェミニズム活動家」のシアパ副大臣は2017年に『無条件のライシテ (Laïcité, point ! フランスにおける政教分離の原則は、「ライシテ」と呼ばれています。 フランス,ベルギー,ケベックのライシテを比較する ― 65 ― Ⅰ.歴史的生成の特徴 1.フランス フランスのライシテは,やはり大革命以来の共和派とカトリックの「2 つのフランスの争い」を通して生成してきたことが特徴的である。 宗教の異なる移民をフランス社会に統合するための政策として、フランスが適用してきたのが「ライシテ(laïcité)」だ。 たとえば1950 年代から 1980年代にかけて、「ライシテ」という言葉は、もっぱら宗教が運営する私立学校が公的補助金を受けること(とりわけ1959年のドゥブレ法以降)に反対して「公立校を防衛すること」を一般に意味していた。 フランス公教育におけるライシテの ... フランスにおいて、政教分離原則を意味するライシテの原則が憲法原理となったの ... それまでの歴史的な展開からは独立した、新たな公教育のライシテの意義を認める … フランスの宗教状況を見ていきましょう。カトリック教徒が比較的多いものの、その割合は過去数十年の間に縮小し、現在は無宗教割合が増えているなど世俗化が非常に進んでいます。フランスが持つ歴史は「現代世界史の幹」とも表現されるなど、近現代のヨーロッ ジャン・ボベロ著 ; 三浦信孝, 伊達聖伸訳 (文庫クセジュ, 936) 白水社, 2009.5. Amazonで伊達 聖伸のライシテから読む現代フランス――政治と宗教のいま (岩波新書)。アマゾンならポイント還元本が多数。伊達 聖伸作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またライシテから読む現代フランス――政治と宗教のいま (岩波新書)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 タイトル別名. フランスの基本的な理念の1つであるライシテとは、いったい何なのか、子供向けに簡単なフランス語で説明している1 jour, 1 question の動画を紹介。トランスクリプション、和訳、単語メモつき。 フランスは歴史の中でカトリックが主流となっており、また、カトリック文化の影響も強く受けてきましたが、「ライシテ」によって世俗化が進み、現在はカトリック教徒の割合も人口の半分以下にまで減少しています。 フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史. フランスでは前世紀の始め、カソリック教会の影響が大変強かったので、1905年にライシテの法律ができました。 現在はライシテの原則は、宗教だけではなく、人の自由を制限してしまうどんな思想や行動にもあてはめて考えられています。 ジャスミン男 2015/01/23 23:46. Laïcité de l'Etat, laïcité de la société ? 昨年10月からフランス語のアトリエに通い始め、週4回の授業を受講しています。授業は、ベネボル(bénévole)と呼ばれるボランティアの方々が受け持ち、各回ごとに先生が変わります。皆さん60歳をゆうに超えたはつらつとしたフランス女性たち。そんな彼女たちから学ぶことが多いのがこ … フランス ニオケル ライシテ ノ レキシ 風刺雑誌『シャルリー・エブド』の本社襲撃やパリの劇場でのテロ、そしてニースでのトラックの突入──と、フランスはテロに狙われるつづけている。自らがテロの標的である政治学者が理由を語る。, 近年、フランスではイスラム過激主義に心酔した青年たちによるテロが相次いでいる。2015年1月の風刺雑誌『シャルリー・エブド』のテロ(17人死亡)、同年11月の劇場やレストランでのテロ(130余人死亡)、昨年7月、ニースで突っ込んできたトラックによるテロ(86人死亡)はまだ記憶に新しい。今年4月末には大統領選直前に警察官がイスラム原理主義者に殺害された。, なぜこんなにも頻繁にテロが発生しているのだろうか。自分自身がテロ実行犯の殺害リストに名前を挙げられ、24時間警護態勢下にいる政治学者ジル・ケペル氏にパリで話を聞いた。, ──**『グローバル・ジハードのパラダイム──パリを襲ったテロの起源』(日本語版は6月26日発売予定、版元は新評論)のオリジナル・フランス語版は2015年末に出版された。この年の11月に起きたパリ大規模テロを予測していたかのような出版となったが。**, 11月13日にテロが起きることを知っていたわけではない。しかし、なぜフランスでテロが多発するようになったのかについてここ3年ほど調査をしていたので、パリ・テロには驚かなかった。, 新刊では、フランスのジハード(イスラム教の聖戦)運動がいかに醸成され、それが中東情勢とどう結びついているのか、2005年以降、欧州が西側諸国の弱点となっていること、またイスラム教自体がどのようにフランスで展開していったのかについて、深く分析した。, フランスのテロの状況を理解すれば、世界各地でなぜイスラム系テロが起きているのかを理解できると思う。フランス語版は2015年時点の話だったが、英語版と日本語版は昨年12月、ドイツのクリスマスマーケットで発生したテロを含めアップデートされている。, ──**「2005年以降、欧州が西側諸国の弱点となった」というが、この年に何が起きたのか。**, いくつかの偶発的な出来事があった。この年、(イスラム過激集団「アルカイダ」の一員)アブ・ムサブ・アルスーリが『地球的なイスラム主義の抵抗への呼びかけ』(A Call for Global Islamic Resistance)と題する本をネット上にアップロードした。神の名において攻撃を行うことを若者たちに呼びかけた。イスラム過激集団「アルカイダ」はヒエラルキー型で上から指令を出す形だったが、こちらは下からの、ボトムアップ方式での運動だ。, 同じ年にフランス各地で若者を中心にした大規模な暴動が発生した。暴動がすぐにテロに結びついたわけではない。テロ計画は刑務所で育まれた。刑務所はジハード運動を生み出す大きな培養器となった。, 中東では「アラブの春」と呼ばれる反独裁政権運動が広がり(2010年末~2011年)、世界各地で破壊的な状況が生じた。アラブ世界がより民主化されることを多くの人が願ったが、リビア、チュニジア、マリ、シリア、イエメンは大混乱状態となった。欧州からこうした国にほんの100ユーロ(約1万2000円)もあれば行ける。, そこで、数千人規模の欧州に住む若者たちがイスラム過激集団「イスラム国」(IS)の一員として戦闘に参加するために現地に出掛け、そこで戦闘訓練を積み、母国で攻撃を開始するために戻ってくるようになった。, さらに、2000年ごろからサラフィー主義(注:イスラム教スンナ派の思想。厳格な復古主義が特徴でイスラム国家の建設を求める)というイデオロギーが広がっていた。, 確かに多発している。2015年1月、風刺雑誌『シャルリー・エブド』の編集部が攻撃されてから昨年7月26日にジャック・アメル神父がミサの最中にISに心酔した青年らにのどを切り裂かれて亡くなった事件までの間に、239人がテロによって命を落とした。, まず、フランスはEUの中でも失業率が高い。若者層に限るとドイツや英国よりもはるかに高い。そして、雇用市場に入りにくく、流動性が低い。, このため、移民の子どもたちが住み、失業率が40%近くにも達する「郊外」(「banlieue=バンリュー」と呼ばれる)の住民の間に疎外感が生まれている。, その一方で、イスラム教徒ではない国民も同様の疎外感を持っている。反移民の極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン氏に大統領選で票を投じるような人々だ。彼女に投票するのは仕事がないからだ。親の世代よりも自分たちは生活の水準が低下していると感じている。, イスラム過激主義に向かう人々と、非イスラム教徒でルペン氏に投票するような人々が並行して存在している。互いに対立する立場にあるものの、疎外感という点では共通する部分がある。, 2つ目の要因はフランスが植民地の宗主国であった点だ。現在のフランスはフランス共和国であると同時に、かつての植民地アルジェリア、モロッコ、セネガルとつながっていた過去がある。元植民地出身者の子どもたちが、今フランスに住んでいる。, 父親たちは自国を再建するため、フランスに移民労働者としてやってきた。1970年代半ばになって産業構造が変わり、職を失った。しかし、自国には戻らずここにい続け、家族を本国から呼び寄せるようになった。, フランスはかなり大きな移民人口を抱えている。高等教育に進んだ人もいるが、大部分はそれほど高い教育を受けていない。教育の程度が高くなく、雇用を見つけにくい若い移民出身者の層がだいぶん存在している。, こうした人々は、社会的な不正義が行われている、植民地時代の名残に責任があると感じるようになる。, たとえば、2012年、南西部トゥールーズのユダヤ人学校での銃殺事件を思い出していただきたい。実行日は3月19日だった。この日はアルジェリアの独立につながる休戦協定の実施からちょうど50年だ。, 実行犯となったアルジェリア系フランス人モハメド・メラーの家族は、フランスを嫌っていた。彼はジハードの形でフランス本土でアルジェリア戦争を勃発させたともいえる。, 逆にフランスは、どちらかというと外からの移民を多く受け入れてきた国だ。たとえば私がそうだ。私の両親はチェコスロバキアの出身だ。, フランスにやってきた人は、「フランスとの協定」を結ぶ。これを受け入れた人は誰であろうとどんな肌の色だろうと、フランスの学校に通い、フランス共和国の集団としての価値観を受け入れる限りは、たとえどんな差異があったとしても、フランス人になれる。, ところが、仕事を見つけられず、将来に明るい展望が描けず、この「協定」を受け入れられなくなっている人がいる。自分のアイデンティティはイスラム教徒であること、あるいは白人のフランス人であることに慰めを見いだす。互いに共通点よりも、いかに他人と違うかのほうを重要視する。, イスラム過激主義の議論が公的言論空間に出てくるようになり、影響を受ける人も出てくる。, ──北アフリカなどからの移民はフランス社会に十分に融合していないと言えるだろうか。, まったくそうは思わない。一般的に言えば、移民出身者は社会に非常によく融合していると思う。私自身も含めて北アフリカ出身者を妻にしている人も多いし、中高年となる私の世代で言えば、移民出身者と非移民出身者の間の交流は活発だと思う。, 目的は非イスラム教徒の国民に向けての挑発だ。テロによって非イスラム教徒の国民が反撃を開始し、(イスラム教徒の礼拝所)モスクを破壊し、攻撃計画を実施してゆくことを期待している。欧州で極右支持者や人種差別主義者が増えれば増えるほど社会が分断され、イスラム教徒の国民が自分たちを支持するだろうとジハード実行者たちは想定する。, ──新刊の中で、教授はジハード戦士の狙いを「幻想」と呼んでいる。テロが起きても、欧州各国の政府は戦士たちが期待しているような対テロ戦争を勃発させたりはしていないからだ。, フランス当局が計画が実行される前にその芽を摘み取ってきたからだ。巨額の資金と人的資源をテロ防止につぎ込んできた。テロリスト予備軍が用いるソフトウエアのコードを解明したのだと思う。以前は実行犯がネットで情報網を広げていることを十分に理解していなかった。, シリアとイラクに拠点を置くISが爆撃やドローン攻撃で弱体化傾向にあるのも理由だろう。, フランスの近年のテロ事件の画策に多く関係していたラロッシ・アバーラ(昨年夏に警察官の妻を含む3人を殺害)は私に死の宣告を行った。そのために私は今、24時間警察の警護態勢下にあるが、彼は今年2月、米軍のドローン攻撃で殺害されている。, 今でも戦士をリクルートするコンテンツはネット上にあるが、ISは手段が不足している状態だ。自分たちの命を守ることに必死だし、イラクで戦っている最中だ。西欧でのテロ計画を立案する時間があまりない。, そうなるはずだ。シリアと欧州を行ったり来たりすることが簡単だった時には、シリアに行って、帰ってきてバタクラン劇場(2015年11月のテロの発生場所)でテロを行うことができた。ベルギーに戻って、パリに来て自爆テロを行う、ということが。, しかし、いまやこれが難しくなった。いったんシリアに行ってしまうと、抜け出すことが難しい。, ジハード疲れもあると思う。テロにも効率性が求められる。人を殺すだけだったら、難しくはない。 しかし、一般大衆からの支持を喚起するのは簡単ではない。, マクロン新大統領の課題になるが、まず教育体制を立て直すことだ。きちんとした教育を受けるようになれば、経済の再建にもつながる。教育を受けて仕事を見つけられれば、何でもできる。, 2つ目は、何が起きているのかについてもっと知識を持ち、理解を深めることだ。中東研究はフランスでは最優先されていない。官僚主義の弊害だ。, 欧州が世界の中でこのまま存在感を薄れさせていけば、ジハード戦士や極右あるいは外国人嫌いを表に出す政治勢力が伸長してしまうことにつながる。英国のEUからの離脱(ブレグジット)がそうだし、オーストリアでもオランダでも極右政治勢力が力を伸ばしている。フランスにはルペン氏がいる。, ──最後に、ライシテ=世俗主義について聞きたい。昨年夏、イスラム教徒の女性が海辺で着用するブルキニ問題が発生した。フランスの海辺の自治体が一斉にブルキニ着用を禁止した。フランス以外の国では、あまりにも行きすぎではないかという声が出たが。, ブルキニ問題は、昨年7月14日、当時最後の大量の死者が出たまさにその場所となるニースで起きた(注:イスラム教過激主義に心酔した青年がトラックで歩道者に向かって突っ込み、86人が命を落とした)。86人のうち、30人はイスラム教徒で、誰しもがその死を悼んでいた。, ニースの事件からほんの数日後、海岸でブルキニを着ている女性たちがいた。地元の自治体はパニック状態になった。条例などを使ってブルキニ着用を禁止した。法的根拠があったわけではなかった。しかし、また攻撃があるのではないかと市民がおびえていたため、着用禁止令が必要だと考えたからだ。, このとき、イスラム主義の組織「ムスリム同胞団」やイスラムフォビアをなくすための団体がこう言いだした。「フランスは239人をテロで失った犠牲者だったが、ブルキニの1件で、一晩で犯罪者になってしまった」と。「世俗分離主義が厳格すぎた」。, こうした団体は、テロの犠牲者を忘れるような文脈を作っていた。重要なことは、「ブルキニの着用を禁止された自分たちが犠牲者となったことだ」と。「239人の死者のことは考えないようにしよう、ブルキニのことを考えよう」。, 論理が破綻している話だが、米ニューヨークタイムズを含む多くのメディアがこの論理にひっかかってしまった。, ライシテが原則となる社会では、キリスト教徒であろうと、ユダヤ教徒であろうと、無神論者であろうと、あなたがどんな宗教を信じているか、あるいは信じていないのかはほかの人には関係ない。宗教の帰属(あるいは非帰属)を公にする必要はない、重要なことではないと考える。, 重要なのは、私だったら、教授であること、学生に教えていること、本を読み、本を書くこと──これが私の定義となる。, 自分はカトリック教徒のフランス人で、チェコ出身の両親がいるから、この洋服をこんな風に着てほしくない、そういう洋服の着方は私を侮辱するからだ……と私が言い出したり、ほかの人が言い出したらどうなるか。社会はバラバラに分断されてしまう。小さな分断されたコミュニティができてしまう。たとえば多文化主義の英国が今そうなっている。表面的には静かで何も問題がないように思えるかもしれないが、まったくそうではない。国が決定的に分裂してしまうと思う。, ジル・ケペル(Gilles Kepel)1955年生まれ。フランスのエリートを教育するパリ高等師範学校やパリ政治学院で教える。イスラム主義、現代アラブ世界関連の著書多数。アラビア語の文献を読み込み、幅広い現地調査と徹底した事実の積み重ねによる鋭い分析で知られる。新刊は『グローバル・ジハードのパラダイムーパリを襲ったテロの起源』, ※2014年3月31日以前更新記事内の掲載商品価格は、消費税5%時の税込価格、2014年4月1日更新記事内の掲載商品価格は、消費税抜きの本体価格となります. 大きく分けると 2つの要素からなっています。 「国家と教会の分離」を示す. その歴史的経緯から、国民の信教の自由を保障することに重点が置かれ、後述するフランスと比較すると、宗教が政治に関わることに比較的寛容なのが特徴です。 フランス. フランスにおけるライシテとは何か?学校におけるライシテ(laïcité)憲章 25. )』(注記:「積極的なライシテ」、「開かれたライシテ」などの形容詞で限定されないライシテ)という本を著した(共著)。彼女は、「ライシテと女性の権利は直結していると思う。欧州でもそうだが、教会と国家が分離されていない国では、人工妊娠中絶や避妊手段の利用などの女性の権利を真っ向から否定することになりかねない。私にとってライシテが重要なのは、それが特定の共同体や宗教に限定されないということ」[91]、「フランス共和国が強制結婚を許さないのはライックだから。フランス共和国が女性器切除は残酷な四肢切断と同じで、習慣でも伝統でもないと断言できるのはライックだから。文化的・宗教的相対主義の立場を取らず、世界のどんな場所においても、女性の身体に対して本人の同意なく何らかの行為をしてはならないと言えるのはライックだから」[92]と語っている。, フランスでは、表現の自由が法的に制限されるのは、基本的な自由や個人の自由が侵害される場合だけである。ライシテ原則に基づく共和国法においては、宗教的な表現と反宗教的な表現は同等の価値を有する。したがって、冒涜罪は存在せず、思想・表現の自由としての「冒涜する自由」が存在する[93]。, そして、宗教批判は自由だが、個人の自由を尊重する以上、信者個人への攻撃は当然許されない[94]。, もちろん線引きは難しいが、むしろ、だからこそその都度議論を尽くし、合意を形成していく。「『わたしはあなたの意見に反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命がけで守る』--- ヴォルテールの考え方を端的に示すとされるこの言葉が、表現の自由のために闘うフランス人の矜持となっている」[95]。, ただし、アルザス・モーゼル地方(バ=ラン県、オー=ラン県、モーゼル県)にはごく最近まで冒涜罪が存在した。これは政教分離法が成立した1905年に、アルザス・モーゼル地方は(1871年のフランクフルト講和条約により)まだドイツ領であったため、同法の適用を免れたからであり、フランスが同地方を奪還した1919年にも、地方法がフランス共和国法に合わせて改定されることはなかった。アルザス・モーゼル地方の刑法典第166条には、「公共の場で侮辱的な言葉により神を冒涜し、不安を煽る者、連邦領土において設立し、法人として認められたキリスト教団体・宗教共同体又はかかる団体の組織や儀式を公共の場で侮辱する者、ないしは教会又は宗教集会のためのその他の場所において侮辱的かつ不安を煽る行為を犯す者は、3年以下の禁錮刑に処せられる」と書かれていた(また、牧師や司祭、ラビは国から俸給を受け支給され、キリスト教およびユダヤ教の宗教施設の維持費は地方自治体が負担し、さらに、義務教育の一環として宗教教育も行われていた)[96][97]。, この第166条が廃止されたのは2017年1月27日のことである(「平等及び市民性に関する2017年1月27日の法律第2017-86号」[98]による)。, 一方で、差別的な表現による誹謗中傷、憎悪の扇動などで訴訟が提起されることも少なくない。差別は、フランス刑法典第225-1条の以下のように定義されている。, 差別とは、出自、性別、家族状況、妊娠、身体的外観、外見から想像される又は原因が明らかな経済状況に起因する非常に困難な状況、姓、居住地、健康状態、自律性の喪失、障害、遺伝的特徴、風俗習慣、性的指向、性同一性、年齢、政治的信条、組合活動、フランス語以外の言語による表現力、特定の民族、国家、いわゆる人種又は自ら選択した宗教への実際又は想定上の帰属又は非帰属を理由に、自然人の間に区別を設けることである[99]。, 反宗教、宗教批判、反教権主義との関連における表現の自由およびライシテの問題は、とりわけ、2006年に『シャルリー・エブド』がムハンマドの風刺画を転載・掲載したことで激しい議論を巻き起こし、裁判により無罪となったことであらためてその重要性を確認することになったが、このとき、国際人権連盟 (FIDH) のジャン=ピエール・デュボワ(フランス語版)会長 (2005 - 2011) は、「風刺漫画家の自由を含む報道の自由は、宗教による禁止に左右されることはない」、「状況を承知の上で他人の感情を害したり挑発したりすることは、自らの責任においてショックを与え、無知蒙昧を知らしめることである。これに対して、理性のための闘いの第一歩は、常に自由な批判と、常に侮蔑すべき誹謗中傷を区別することであり、これは、検閲や裁判によるのではなく、民主的な議論が必要な問題である。ただし、挑発者は挑発という手段を用いるときに、自分がまるで犠牲者であるかのような振る舞いをして、批判を逃れようとしてはならない」とし、「自由と責任は表裏一体であり、民主主義と尊重も同様である」ことを確認した[100]。, 以下に、フランスにおける表現の自由がライシテ原則に基づくものであることを示す事例を挙げる。, 1988年10月22日の深夜、マーティン・スコセッシ監督の映画『最後の誘惑』が上映されていたパリのサン=ミシェル映画館で放火事件があり、13人が負傷(うち4人は重傷)。テロ事件 (Attentat du cinéma Saint-Michel) としてその夜のニュースで一斉に報じられた[101][102]。, ニコス・カザンザキスの小説『キリスト最後のこころみ』に基づき、キリストを悩める人間として描いたこの作品は、キリスト教団体から「冒涜」だとして猛烈に批判された。放火事件を起こしたのはカトリック極右団体「反人種差別およびフランス人・キリスト教徒アイデンティティ尊重のための総同盟 (AGRIF)」のメンバー5人であった。事件後3週間で『最後の誘惑』を上映していたパリの映画館17館のうち15館が上映を中止。国内の他の都市でも小規模ながら同様の事件が発生した。極右政党「国民戦線」は映画フィルムの完全な破壊を求めた。マーティン・スコセッシ監督は、「キリストは人間の試練を一身に引き受けた生身の人間として描く必要があった」と説明した。5人は1990年の裁判で執行猶予付きの禁錮刑と45万フランの罰金刑を言い渡された[103]。, AGRIFは「反人種差別」を標榜するが、「反キリスト教徒的人種差別」と矛盾を含んだ表現で暗に「白人」に言及し、むしろ多くの訴訟を提起することで反キリスト教的な芸術作品の検閲や発禁を求めることを主な活動にしているが、ほとんどの告発、訴訟において表現・報道の自由を理由に却下され、または敗訴している。, AGRIFは『最後の誘惑』のほか、映画ではジャン=リュック・ゴダール監督の『こんにちは、マリア』、ジャン=ピエール・モッキー監督の『彼は地獄で凍えている (Il gèle en enfer)』、コスタ=ガヴラス監督の『ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼』、ロドルフ・マルコーニ監督の『これが私の肉体』、ミロス・フォアマン監督の『ラリー・フリント』がAGRIFに訴えられたが、訴えはすべて却下された[104][105][106]。, 2005年3月、パリ大審裁判所が、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を模した衣料品会社マリテ+フランソワ・ジルボーのポスター[107]について有罪判決を言い渡した。, これは『最後の晩餐』のキリストと使徒らを女性に置き換えた写真で(ただし、背中を向けている男性が1人)、既にイタリアのミラノでは禁止されていたが、フランスではフランス司教協議会の一派である「信仰・自由」協会が「宗教を理由に特定の集団を誹謗中傷した」として訴えていた。他のキリスト教指導者からも「冒涜的だ」、「嘲笑的だ」、「暴露的だ」、「信仰を商業的な目的に利用した」、「この調子だと、次は十字架にかけられたキリストが靴を売ることになるだろう」などの非難が相次いだ。第一審の判決に対して人権連盟は「恥ずべき後退だ」とし、マリテ+フランソワ・ジルボーの代理人も「表現の自由の禁止を求める判決だ」と批判した。マリテ+フランソワ・ジルボーも他人の感情を害するつもりはまったくないとして不服申し立てをした[108][109][110][111]。, ところが、パリ控訴審(第二審)も、「この広告はよく練られた芸術的・美的表現であるとしても、そしてたとえ聖体の秘跡が題材になっていないとしても、キリスト教創始者の行為を、いたずらに目を引く裸体を使って暴露的に表現し、その神聖さを侮辱したことに変わりはない」として、第一審の判決を支持した。, 2006年11月、破棄院は、控訴審の判決を無効とし、原告の訴えを却下した[112]。, 2006年、風刺新聞『シャルリー・エブド』がデンマークの日刊紙『ユランズ・ポステン』に掲載され、既に物議をかもしていたムハンマドの風刺画を転載し、併せて、表紙に「原理主義者にお手上げのムハマンド」、「ばかどもに愛されるのはつらいよ」書かれた風刺画を掲載したことで、イスラム団体(仏イスラム組織連合 (UOIF) とグランド・モスケ・ド・パリ)に「宗教を理由に特定の集団を公に侮辱した」として訴えられた[113]。, 2007年3月の第一審では、「ライシテおよび多元主義を原則とする社会では、信仰の尊重と宗教批判の自由は同じように重要である。・・・この表現(「ばかどもに愛されるのはつらいよ」)は確かに侮蔑的だが、見出し(「原理主義者にお手上げのムハマンド」)に明示的に示される「原理主義者」を対象とした表現にすぎず・・・信者全体を侮蔑する性質のものではない。・・・(他の画もまた)、イスラム教ではなく自爆テロを風刺したものである。・・・頭に爆弾を載せたムハンマドの風刺画については(転載されたものであり)、たとえショックを与えるものであっても、暴力的な示威行動が繰り返された当時の「文脈」において判断されなければならない。(シャルリー・エブドの行為は)明らかに、威嚇への抵抗と、脅迫および報復を受けた(デンマークの)ジャーナリストとの団結を表わす行為である」として、これを無罪とした[114]。, この後、表現の自由とライシテのために闘った『シャルリー・エブド』は文部省からその勇気と功労を称えられ[115]、ダニエル・ルコント監督によるドキュメンタリー映画も制作された[116]。, 2015年1月7日にシャルリー・エブド襲撃事件が発生し、イスラム過激派により『シャルリー・エブド』の風刺画家、コラムニストら12人が殺害された。国際テロ組織アラビア半島のアルカイダが「ムハンマドを侮辱したことへの復讐だ」として犯行声明を出した[117]。, 2006年9月19日付けの『フィガロ』紙に哲学者のロベール・ルデケール(フランス語版)の「イスラム原理主義者の威嚇に晒され、自由な世界はどうしたらいいのか」と題する記事が掲載された。記事には、「すべてのイスラム教徒が教えを受けるコーランには憎悪と暴力が潜んでいる」、「ムハンマドは情け容赦のない戦争のボス、略奪者、ユダヤ人の虐殺者、一夫多妻者・・・これがコーランから浮かび上がってくるムハンマドの実像である」などと書かれていたため[118]、イスラム教徒が大多数を占めるエジプトやチュニジアなどでは同日付けの『フィガロ』紙は発禁になり、フランス国内でも批判が殺到し、ロベール・レデケールは殺害予告を受け、警察の保護下に置かれた。これに輪をかけるように、イスラム原理主義者らはインターネット上に死刑宣告のファトワを流した。「反人種主義・民族間友好運動 (MRAP)」のムールード・アウニ代表は、殺害予告や威嚇は赦しがたいとする一方で、レデケールの挑発がこうした状況を生んだのだと非難した。政治家も同様であった。ドミニク・ド・ヴィルパン首相は、この件は「あまりにも頻繁に不寛容が露わになる危険な世界にいるということ」を示しているとし、ジル・ド・ロビアンもレデケールとの「団結」を表明しながらも、「公務員はどのような状況にあっても慎重かつ節度のある態度を示さなければならない」と批判した[119]。, 一方、「人種主義と反ユダヤ主義に反対する国際連盟 (LICRA)」の主催で、ロベール・レデケールを支援する会が催され、イスラム学者のソエイブ・ベンシェイク(フランス語版)、作家のパスカル・ブリュックネール、哲学者のアラン・フィンケルクロート、エリザベット・ド・フォントネ、ブランディーヌ・クリージェル(フランス語版)、クロード・ランズマン、『シャルリー・エブド』の編集長フィリップ・ヴァル(フランス語版)らが参加した。彼らは、『フィガロ』紙に掲載した記事で、「思考自体が、愚行者や狂信者にとっては挑発になる」とし、とりわけ、一部のイスラム原理主義をファシズムだと非難するソエイブ・ベンシェイクは、「イスラムを批判しないのは(イスラムだけ特別扱いする)隔離政策のようなものだ」と宗教批判を支持した[120]。, さらに、ジャン・ボベロ(フランス語版)は、「ロベール・レデケールの表現の自由を守ることと、憎しみに満ちたばかばかしさを支持するのとは違う」とし、これに反対した[121]。, 2003年5月、フランソワ・バロワン(国民議会副議長、トロワ市長、与党UMP)が「新しいライシテのために」と題する報告書を提出した。バロワン報告書では、多文化主義とイスラム世界がフランスのアイデンティティを脅かすとされ、非宗教性、政教分離原則としてのライシテが、文化およびアイデンティティの問題にすり替えられた[122]。, 2003年7月に、ジャック・シラク大統領の命により、共和国調停人(オンブズマン、Médiateur de la République)のベルナール・スタジ(フランス語版)を委員長とし、歴史・社会学者のジャン・ボベロ(フランス語版)、哲学者・作家のレジス・ドゥブレ、作家のアンリ・ペニャ=ルイズ(フランス語版)などの様々な分野の専門家から成るライシテ原則の適用に関する委員会が設置された。12月にシラク大統領に提出されたスタジ報告書では、ライシテ原則は「国民を結集し、同時にまた、個人の自由を保障する」「国家統合の基盤」であるとされた[123]。, シラク大統領はスタジ報告書を受けて、12月17日に、「共和国の基盤であり、尊重、寛容、対話といった共通の価値の集大成であるライシテ原則」のもとに「国民を結集する」という趣旨の演説を行った。, ライシテは思想・良心の自由を保障する。ライシテは信じる権利と信じない権利を保障する。ライシテは、各国民に、他の信念・信仰を押し付けられるおそれなく、自由かつ心穏やかに信仰を表現・実践する可能性を保障する。ライシテは、全世界から、あらゆる文化からやってくる女性および男性に、共和国およびその機関により自らの信念・信仰が守られることを約束する。すべての人々に対して開かれ寛大なライシテは、各自がフランス社会のために最良のものをもたらすための出会いと意見交換の特別な場であり、異なる宗教の調和的共生を可能にする公的空間の中立性である[124]。, 2006年、1989年に設立された首相直属の検討・提議機関である統合高等審議会(フランス語版)(HCI) がライシテに関する使命を担うことになった。統合高等審議会は2012年に廃止され、ライシテ監視機構(フランス語版)がこの使命を引き継いだ。, 2007年、ライシテ監視機構が設立された。首相直属の機構としてライシテ原則の尊重に関する政府の政策を助けることを目的とする。なお、ライシテ監視機構が正式に発足したのはフランソワ・オランド政権下の2013年4月である。, ニコラ・サルコジは内務大臣(兼宗教担当大臣)の頃から自著『共和国、宗教、望徳 (La République, les religions, l’espérance, Cerf, 2004』で「私はカトリックの文化、カトリックの伝統、カトリックの信仰に育った」と個人的な信条を明らかにするだけでなく、「国家による大宗教の経済的支援」などの1905年ライシテ法の修正を含む「消極的で恥ずべきライシテではなく、積極的な (active) ライシテ」を提唱するなど、物議をかもしていたが[125]、2007年5月に大統領に就任してからも国家元首としてライシテ法本来の精神に反する発言を繰り返し、批判を浴びた。, 2007年12月20日、教皇庁を公式訪問し、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(ローマ司教としての教皇の司教座聖堂)の名誉参事会員の称号を与えられた。これ自体は特別なことではなく、シャルル・ド・ゴール、ジスカール・デスタン、ジャック・シラク、そして2018年にはエマニュエル・マクロンも名誉参事会員の称号を与えられている。問題は、このときの演説で「フランスのルーツは本質的にキリスト教的だ」、「非常に長い間、我々の国家をカトリック教会に結びつけてきた非常に特別な絆」、「ライシテ法にはフランスをそのルーツであるキリスト教から切り離す権限はない」などの表現により、フランス共和国の歴史とカトリック教会のつながりをことさらに強調し、ライシテについて否定的な見方をしていることである。とりわけ、ライシテについては、「コンコルダ(政教条約)を破棄した1905年の政教分離法の成立は、フランスにおけるカトリック教会にとって深い傷を与える辛い出来事であった」という2005年の教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉[126]を受けて、1905年のライシテ法成立前にも成立後にも「フランスでカトリックの信者、司祭、修道会などの団体が味わった苦しみ」に深く共感し、教育についても宗教性が不可欠であるかのように、「価値を守り伝え、善悪を教えることにおいて、小学校教員は決して司祭や牧師の代わりにはならない。なぜならば、小学校教員には人生を犠牲にする情熱や、望徳によりもたらされる熱心な指導者のカリスマ性が常に欠如しているからである」と述べ、ここでもまた(用語は違うが)「積極的な (positive) ライシテ」の必要性を訴えた[127][128]。, 共和主義的ライシテを否定するこのようなこのサルコジの発言に非難が殺到した。フランス大東社は、「フランス共和国は、しばしば困難に直面しながらもライシテの概念を作り上げ、これに生命を吹き込むことで、宗教からの解放を成し遂げたのである」とし、「宗教が政治・市民アイデンティティの一部であるかのような」大統領の発言に懸念を表明した[129]。, 哲学者のカトリーヌ・カンツレール(フランス語版)は、「ライシテに関するサルコジの個人的な見解については彼の著書に書いてあるから知っているし、一人のライックとしてこれに異議を唱えるつもりもないが」、「共和国大統領として公にこのような発言をしたことにショックを受けた」とし、さらに、「積極的差別という言葉を想起させる」「積極的なライシテ」という概念は「ライシテの概念を骨抜きにする。なぜならば、ライシテとは必然的に消極的でミニマリストだからだ。ライシテとは、政治関係を築く上で「何も信じる必要はない」ということである」と反論した[130]。, 中道派のフランソワ・バイルーは、「フランスでは不可能な国家と宗教の混同への逆戻りだ」と批判した[131]。, 「キリスト教徒ライシテ監視機構 (Observatoire chrétien de la laïcité)」は、「(サルコジ大統領が)我々の国のカトリック以外の宗教、不可知論および無神論の精神的・人道的・文化的な貢献を考慮せずに、誰もが抱く希望が宗教においてのみ実現されると考えるのは」「とんでもないことだ」と批判した[132]。, 言語学者のジャン=クロード・ミルネール(フランス語版)、ジャーナリストのカロリーヌ・フレスト(フランス語版)、作家のアンリ・ペニャ=ルイズ(フランス語版)らが2008年2月26日付の『リベラシオン』紙に「ライシテを救え」と題する記事を掲載し、「共和国大統領はライシテに対して容赦ない攻撃を仕掛け、これを乱暴かつ全面的に問い直そうとしている」と批判した[133]。, 教育連盟(フランス語版)もネット上に「共和国のライシテを守ろう」という請願書を掲載し[134]、3か月間に約15万人の署名および哲学者、労働組合その他の計145団体の支援を得て当初の目標を達成した。, アンリ・ペニャ=ルイズによると、サルコジは共和主義的ライシテについて、5つの重大な過ち・誤謬を犯している[135]。, (注記:なお、比較のために例を挙げるなら、フランスではライシテ原則に基づき、靖国神社問題におけるように公人が公人として特定に宗教に参加(参拝、寄付、奉納等)することは禁止されており[136]、米国の大統領就任式におけるように聖書に手を置いて宣誓することもない[137]。), 一方、バチカンではジャン=ルイ・トーラン(フランス語版)枢機卿が「この積極的なライシテは、宗教に危険性ではなく、むしろ可能性を見出すものである」とし[138]、神学者のジャン=ミゲル・ガリーグ (Jean-Miguel Garrigues) も、「このライシテに関する公式見解により、フランス共和国とカトリック教会の真の関係がようやく明らかになった」と、サルコジの発言を歓迎した[139]。, 2008年1月14日、サルコジはサウジアラビアの首都リヤドを訪れ、アラブ世界との関係について見解を述べた。この演説では「一人ひとりの思考と心のなかにいる超越的な神」、「人間を服従させるのでなく、解放する神」と「神」という言葉を繰り返し、「神」は「人間の法外な傲慢と狂気に対する防波堤」だと主張した。さらに、ラテラノでの演説に対する批判を踏まえて、「私は政教分離原則に基づく国家の元首として、個人的な好みにより宗教に優劣をつけることなく、すべてを尊重しなければならない。私は、ユダヤ人であろうと、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、イスラム教徒であろうと、無神論者であろうと、フリーメイソンであろうと、合理主義者であろうと、各人がフランスで生きることに幸福であると、自由であると感じ、各人の信念、価値、出自が尊重されていると感じるようにしなければならない」と、カトリック教会との絆を強調したローマでの演説から一転して、「多様性の政治」の必要性を訴えている[140]。, レジス・ドゥブレは、サルコジの神への繰り返しの言及、「神は人間の法外な傲慢と狂気に対する防波堤」だという言葉に対して、「自分を超えるものを求める人間はすべてあの世を見なければならないのか」と皮肉り、さらにこれが政府の責任逃れになる可能性を指摘した[141]。, 1か月後の2008年2月13日に開催された在仏ユダヤ系団体代表協議会(CRIF)の年次晩餐会での演説では、ラテラノでの演説に対する批判について、「私は断じてライシテの道徳が宗教道徳に劣るとは言っていない。両者は相補的だと思っている」とし、さらにラテラノでの演説の「価値を守り伝え、善悪を教えることにおいて、小学校教員は決して司祭や牧師の代わりにはならない」という発言については、「私は断じて小学校教員が司祭やラビ、イマームに劣るとは言っていない」、教師は「正直、寛容、尊重からなるライシテの道徳」を教え、宗教者は超越性を示すという具合に、子供に教える内容が違うだけだと説明し、さらに、ナチズム、共産主義、全体主義を「神なき世界」とし、「子供たちは、教育・人間形成の過程において、精神の問題や神の次元にまで目を開いてくれる、熱心な宗教者に出会う権利がある」と強調した[142]。, 2008年9月、教皇ベネディクト16世がルルドの聖母出現150周年を祝うためにフランスを訪問した際に、パリでサルコジ大統領の歓迎を受けた。このときのサルコジの演説は、ラテラノの演説の延長線上にあるが、「カトリック」という言葉は敢えて使わず、「民主主義のため、ライシテを尊重するために、諸宗教、とりわけ我々が長い歴史を共有するキリスト教との対話」、「開かれた」「積極的なライシテ」が必要だと訴えた[143]。, これに対して教皇は、「ライシテの真の意味と重要性について再検討が必要であると心底確信している。というのは、市民の宗教の自由および市民に対する国家の責任を保障すると同時に、良心の育成において宗教のみが果たし得る役割をより明確に自覚することが必要不可欠だからである」と語った[144]。, 2010年10月、バチカンを公式訪問したサルコジは、教皇ベネディクト16世と会談した後、サン・ピエトロ大聖堂の聖女ペトロニラの祭壇の前で「フランスのための祈り」を捧げた。これを執り行ったのはジャン=ルイ・トーラン(フランス語版)枢機卿である[145]。なお、聖女ペトロニラは「ペトロ(=岩=教会)の娘」、「カトリック教会の長姉」という連想によりフランスの守護聖女とされ、サルコジはラテラノの演説でもこの点を強調していた。, 社会党のフランソワ・オランドは、それまでの大統領と違って無神論者あるいは不可知論者であり、「神は存在するというより、むしろ存在しないと確信するようになったこと」が、人生における一つの重要な節目になっていると言う。また、「個人的には宗教を実践していないが、すべての信仰を尊重する。私の信仰は信仰をもたないということである」と述べている[146]。ジャーナリストのジェローム・アンシベロによると、「(オランド大統領は)ライックだが、ライシテ強硬派ではない。こうした問題については大統領という立場から発言を控えている」[146]。2014年に大統領としてバチカンを訪問しているが、宗教やライシテについての話し合いや発言はなかった[147]。彼はむしろ、「宗教と一定の距離を保つことで、良好な関係を維持していた」[148]。, エマニュエル・マクロン大統領は、2016年7月にイスラム過激派テロリストに殺害されたジャック・アメル(フランス語版)神父の追悼ミサに参加したが、国家元首として追悼ミサには参加するが、中立性を維持するというシャルル・ド・ゴールの立場に近いとされる[149]。同様の理由で、2017年12月にマドレーヌ寺院で執り行われた国民的歌手ジョニー・アリディの追悼ミサでは、棺の前で十字を切らなかった[150]。, 2018年4月9日、マクロン大統領は「コレージュ・デ・ベルナルダン(フランス語版)(中世に修道士のための神学校として建てられ、現在は文化施設および神学教育施設)で行われたフランス司教協議会での演説で、初めて信仰に対する彼なりの見方を示し、「ライシテは宗教性(霊性)を否定するものではない」「我々はカトリック教会と国家の絆が損なわれたという印象を抱いており、これを修復することがあなたがた(司教)にとっても私(国家元首)にとっても重要である」と語ったことで、とりわけライックな左派から、「国家元首の義務に背く」、「ライシテに違反する」、「ライシテに対する攻撃である」などの猛烈な批判を受けることになった[151][152]。, 左派政党「不服従のフランス (France insoumise)」のジャン=リュック・メランション党首は「形而上学的なたわごとだ、耐え難い。大統領の話を期待していたら、聖職者の話を聞くことになった」、アレクシス・コルビエール(フランス語版)は「ライックな共和国の大統領にふさわしくない発言、宗教的共同体主義を再燃させるような無責任な発言だ」、クレマンティーヌ・オータン(フランス語版)は「ライシテ法をいともいとも簡単に踏みにじった。非常に懸念される」、さらに歴史学者・社会党員のダヴィッド・アスリーヌ(フランス語版)[153]も、「既に1905年に(教会と国家の)絆は絶たれている。損なわれたのはなく、幸いにも断ち切られたのだ。マクロン大統領、あなたは攻撃を仕掛けてくる共同体主義から共和国のライシテを守る立場にありながらこのような発言をした。ことの重大さがわかっていますか」と厳しく批判した[154]。, ただし、一方で、オランド政権下で2013年に特にカトリックの猛反対に遭いながらも同性婚合法化法案が可決されて以来[155]、カトリックとの関係が悪化し、マクロン政権下でも生殖補助医療の規制緩和を進めていることから[156]、カトリックに対する懐柔策であるとの見方もある[157][158]。, 2018年6月にはバチカンを訪問し、ラテラノ大聖堂の名誉参事会員の称号を受けている[159]。, マクロン政権下では特に2018年から宗教法人の運営の透明性強化およびヘイトスピーチ対策の強化を目的として、ライシテ法との関連におけるイスラム教団体の位置づけを再検討している。問題は、イスラム教団体の約90%が1905年のライシテ法による宗教団体としてではなく1901年法による文化団体として登録されているために、ライシテ法による厳格な規制が一部適用されないこと[160][161]、また、運営の不透明さが共和国法を遵守しない宗教団体がはびこる原因になっていることであり、政府は今後、ライシテ法による宗教団体としての登録を促すと同時に、刑法典および一般租税法典の一部改正による対応も併せて検討し、2019年第2四半期に法案を提出するとみられている[162]。, フランス革命 (1789-1799) 期に、共和制への従属を拒否し、ローマ教皇への忠誠を誓ったカトリック聖職者の多くが処刑。, 1801年、ナポレオン1世とローマ教皇ピウス7世の間でコンコルダ(政教条約)が結ばれ、カトリック教会、プロテスタントのルター派教会・カルヴァン派教会、ユダヤ教会が公認され、信教の自由が確立。, 復古王政ブルボン朝 (1814-1830) においてカトリックが再び国教として復活。, 七月王政 (1830-1848) から第二共和政 (1848-1852)、第二帝政 (1852-1870)、第三共和政 (1870-1940) の初期に至るまで、カトリック勢力と反教権勢力の対立が続く。, 1850年のファルー法(フランス語版)により国家による私立学校への財政援助を制限付きで認める[163]。, ジャン・ボベロは、フランス社会における宗教の影響力の減少を意味する「セキュラリザシオン (sécularisation)」という意味は「ライシザシオン (laïcisation)」と異なるものではないが、あまりにも外延的すぎると批判しながら、フランスの世俗化は、紛争を調停するために、常に国家という外部の力によって推し進められたきた点に着目している(満足 2004, ボベロ 2009)。, 「ライシテ監視機構」は首相直属の機関で、ライシテに関する政府の政策を助けることを目的としている。起源はシラク政権にまでさかのぼるが、オランド政権下の2013年4月に設立された。, 自由 (Liberté)、平等 (Égalité)、友愛 (Fraternité), Quels sont les principes fondamentaux de la République française ? フランス憲法第二条には「フランスは不可分にして、非宗教的、民主的、社会的な共和国である」とあり、「非宗教」(ライシテ)の原則が政治の場だけでなく、公教育においても守られてきた。 ライシテは、教育と宗教を切り離す原則(政教分離)で、フランスの基本理念の1つです。 1945年の12月9日に、ライシテが誕生しました。 フランスにおける政教分離「ライシテ」とは 「 ライシテ 」とはフランスにおける 政教分離の考え方 で. この人権宣言17カ条は現行の第5共和国憲法において憲法的価値が認めら れている。 この人権宣言10条はライシテの原則を定めていたが、政教関係は、フラ ンスは伝統的にカトリックの国であり、ガリカ二スムの伝統と相俟って複雑な様相 を呈していた。 Manuscript. Jean Baubérot, Micheline Milot, Les nouvelles donnes de la laïcité, Jean Baubérot, Sécularisation, laïcité, laïcisation, Étude du Conseil d'État du 19 décembre 2013, Rapport annuel de l’Observatoire de la laïcité 2014-2015, https://blogs.mediapart.fr/philippe-fleutot/blog/131213/la-laicite-cest-la-liberte, Foulard islamique : « Profs, ne capitulons pas ! タイトル読み. また、「フランス国外で非フランス国籍者とし て生まれ、現在はフランス国内に在住する者 [宮島2006:77]」とも定義される。これ以外に、「外国 で生まれ出生時にフランス国籍を持っていなかった者も含まれる。また「移民出身者」は、移民の | Legifrance, “Pourquoi la laïcité fait polémique en France”, https://www.lexpress.fr/actualite/societe/religion/pourquoi-la-laicite-fait-polemique-en-france_1755624.html, “Le Conseil d'État relance le débat sur le principe de laïcité - France 24”, http://www.france24.com/fr/20110724-laicite-religion-islam-conseil-etat-debat-decisions-collectivites-communautes-catholique?ns_campaign=nl_quot_fr&ns_mchannel=email_marketing&ns_source=NLQ_20110725&f24_member_id=&ns_linkname=node_4463704&ns_fee=0, “Le Québec préfère la neutralité religieuse à la laïcité”, https://www.la-croix.com/Religion/Laicite/Le-Quebec-prefere-neutralite-religieuse-laicite-2017-08-17-1200870236, https://www.cairn.info/revue-les-temps-modernes-2006-1-p-317.htm, La laïcité aujourd'hui, note d'orientation de l'Observatoire de la laïcité, La République, les religions et la laïcité en France depuis les années 1880, “Loi sur l'enseignement primaire obligatoire du 28 mars 1882”, http://www.education.gouv.fr/cid101184/loi-sur-l-enseignement-primaire-obligatoire-du-28-mars-1882.html, “Loi sur l'organisation de l'enseignement primaire du 30 octobre 1886”, http://www.education.gouv.fr/cid101188/loi-sur-l-organisation-de-l-enseignement-primaire-du-30-octobre-1886.html&xtmc=brevet&xtnp=2&xtcr=26, Les fondements juridiques de la laïcité en France, “Les grands principes du système éducatif”, http://www.education.gouv.fr/cid162/les-grands-principes.html, dossiers d'histoire - Les lois scolaires de Jules Ferry - Sénat, PROSÉLYTISME : Définition de PROSÉLYTISME, Philippe Greiner, Genèse de la laïcité et prohibition du prosélytisme, https://www.lemonde.fr/idees/article/2013/03/28/l-islamisation-est-un-mythe_3148954_3232.html, “François Baroin, son livre sur la République et la laïcité”, http://www.lefigaro.fr/politique/le-scan/coulisses/2015/11/05/25006-20151105ARTFIG00068-francois-baroin-son-livre-sur-la-republique-et-la-laicite.php, Rapport de François Baroin « Pour une nouvelle laïcité » (Club Dialogue & Initiative) [Réseau Voltaire, “«La présence de la religion est désormais jugée insupportable»”, http://www.liberation.fr/societe/2014/11/28/la-presence-dela-religion-est-desormais-jugee-insupportable_1152826, Rapport de la "Commission Stasi" (11 déc. 「ライシテ」=世俗主義. タイトル読み. フランスでは前世紀の始め、カソリック教会の影響が大変強かったので、1905年にライシテの法律ができました。 現在はライシテの原則は、宗教だけではなく、人の自由を制限してしまうどんな思想や行動にもあてはめて考えられています。 一 意義と歴史/p327 ... 政教分離と宗教的自由 : フランスのライシテ 著者 小泉洋一 [著] 出版年月日 1999 請求記号 UT51-99-R548 書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000000340791 DOI 10.11501/3155600 公開範囲 国立国会図書館内公開 詳細表示 資料種別 (materialType) Book. Pourquoi les présidents américains prêtent-ils serment sur la Bible ? フランスにおける脱宗教性の歴史. Histoire de la laïcité en France. 教育や政治の場が 1905年フランスで成立。信仰の自由、公教育での宗教教育の禁止などを定めた。これによってフランスの政教分離の原則(ライシテ)が確立した。1989年以降、イスラーム系移民の増加により原則が動揺している。 Histoire de la laïcité en France. フランス ニオケル ライシテ ノ レキシ フランスのライシテは、宗教を公的領域から私的領域に追放するものだが、それだけではない。本書が試みる「世俗の宗教学」は、19世紀の世俗的道徳と科学的宗教学の成立を再構成し、宗教概念の歴史的変遷を辿り、宗教に還元されない宗教性の行方を追う。 ライシテ憲章:アクチュアリティを出発点に 1.ライシテと社会統合理念 1.1.ライシテとは 1.2.共和主義・多文化主義・間文化主義 1.3.ケベックの歴史と潜在的なライシテ 2.教育から見るフランスとケベックのライシテ ライシテ(仏: laïcité; 形容詞 ライック laïque)とは、フランスにおける教会と国家の分離の原則(政教分離原則)、すなわち、(国家の)宗教的中立性・無宗教性および(個人の)信教の自由の保障を表わす。説明的に「非宗教性」という訳語が当てられることがあり、ライシテの成立過程について (laïcisation の訳語として)「非宗教化 / 世俗化」(=社会における宗教の影響力の減少)[1] という語が用いられることもある。また、日本のメディアでは「世俗主義」と訳されることもあるが、これは英語の secularism の訳語であり[2]、これらの概念の歴史的な成立過程から、基本的には別の概念である。日本語の「ライシテ」という言葉は、世俗主義やフランス以外の国の政教分離と区別し、フランス法およびフランスの歴史に根ざした特殊な政教分離の意味で用いられ、ここ10年ほどで「ライシテ」という訳語が定着した(以下の「語義」参照)。, フランス法:フランスは「自由 (Liberté)、平等 (Égalité)、友愛 (Fraternité)」を標語に掲げる共和国であることはよく知られているが、加えて、フランス共和国憲法第1条に「フランスは不可分で (indivisible)、ライックで (laïque)、民主的で (démocratique)、社会的な (sociale) 共和国である」と書かれており、ライシテはフランス共和国の基本原則の一つである[3]。, フランスの歴史:ライシテは元々、フランス革命以来、主に学校教育制度に関するカトリック勢力と、共和民主主義・反教権主義勢力との対立・駆け引きを通じて醸成されてきた原則であり[4]、教育の無償制、義務制、そして非宗教性(ライシテ)を保障するジュール・フェリー法(フランス語版)(1882)、公立学校の教師の非宗教性を保障するゴブレ法(フランス語版)(1886) などによる一連の非宗教化政策の結果、1905年12月9日、フランス共和国(第三共和政)により政教分離法(ライシテ法)――政教分離原則、すなわち教会と国家の分離の原則を規定した法律――が公布され、これにより、フランスの反教権主義(反カトリック主義)は完成し、国家の宗教的中立性・無宗教性および信教の自由の保障が図られた。, 中東からの移民増加とその文化的軋轢が表面化した1990年代以降はイスラムとの関係で論じられることが多いが[4]、ライシテに関する歴史・社会学者のジャン・ボベロ(フランス語版)によれば、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以後、「政治的イスラム」という新たな脅威が生まれ、一部のイスラムに対する恐怖が支配的な趨勢となっていったことがフランスではライシテ法本来の精神からの逸脱、世俗化 ―「ライシテの右傾化」― につながった[5]。, 同時にまた、フランスのライシテは、しばしば国民国家の統一を脅かしかねない(とされる)「アングロ=サクソンの共同体主義」に対置させて論じられるようになり[5]、フランス左派内における「ライシテ強硬派」[6]と「イスラム左派(フランス語版)」[7][8]の対立を生んでいる。, 「ライシテ」の語源はギリシア語の「ラオス (λαός, laós; 民衆)」、「ライコス (λαϊκός laïkós; 民衆に関すること)」であり、「クレーリコス (κληρικός, klêrikós; 聖職者に関すること)」と対語を成している。18世紀末、とりわけフランス革命以後、この言葉は、「教権主義」に反対する共和派の理念となり、「政教分離」、「(教育や婚姻に代表されるような)市民生活に関する法制度の宗教からの独立」、「国家の宗教的中立性」を意味するようになった[9]。, 訳語としては、近年のフランスにおけるライシテ原則の適用をめぐる諸問題を論じるにあたり、「政教分離」、「非宗教性」、「世俗化」などの語が用いられ、たとえば、2008年のジャン・ボベロ来日講演録『世俗化とライシテ』では、羽田正が「ライシテは、『非宗教性』ないし『政教分離』などと訳されることが多いが、日本語ではその語義自体がまだ定まっていない」としたうえで「ライシテ」という訳語を用いているが[10]、これ以後、伊達聖伸の著書 (『ライシテ、道徳、宗教学』(2010年)[11], 『ライシテから読む現代フランス』(2018年)[12])、および同氏らによるボベロの邦訳書 (『フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史』(2009年), 『世界のなかのライシテ』 (2014年)) など「ライシテ」と題する著書が出版され、現在では「ライシテ」という訳語が定着している。, こうした経緯から、本ページでは日本語の「ライシテ」を一般的な政教分離とは区別し、「フランスにおけるライシテ」、すなわち、フランス法およびフランスの歴史に根ざしたライシテ、「フランスの特殊性といわれているライシテ概念」(満足)[9]を意味するものとし、以下では、まず、フランス共和国の基本原則としてのライシテの概念およびその成立過程について記述し、次に、過去30年ほどの間に生じた「ライシテ」の「変質」およびその結果として生じたライシテ原則の適用をめぐる諸問題について説明する。, フランスにおけるライシテとは、政治と宗教を区別・分離するフランス共和国の基本原則である。, 国家は中立的な立場から、(宗教の表明が公の秩序を乱さない限りにおいて)信教の自由および思想・良心の自由を保障し、すべての信念(宗教、無神論、不可知論等)を同等に扱う。この原則は、たとえば、1905年に成立した政教分離法(ライシテ法)の第1章第2条に「フランス共和国はいかなる宗教も公認せず、俸給を与える又は助成金を支出することはない」と書かれているとおり、共和主義的平等を目指すものである[13]。, ライシテは政治と宗教を対立させるものではなく、政治・行政から宗教の影響を排除することが目的である。したがって、宗教は信教の自由、思想・良心の自由という個人の自由の領域を超えることはない。ただし、ライシテはフランス社会に深く根ざすものでありながら、同時にまた、社会の変化に応じて変わっていることも考慮する必要がある[14]。, 一方で、「ライシテ」という概念に曖昧さがないわけではない[15]。信教の自由と思想・良心の自由が区別されるように、ライシテは世俗化 (sécularisation) や中立性 (neutralité) と区別されるが、混同されるまたはすり替えられる場合もある[16]。ライシテに関する歴史・社会学者のジャン・ボベロによると、「世俗化とは、最も広い意味においては、近代社会 ― 科学技術と結びついた合理性を中心とする基準によって機能する社会 ― において、宗教の社会的役割が衰退することを意味し」[17][18]、中立性は、哲学者フェルディナン・ビュイソンがライシテに基づく国家 (État laïque) に与えた定義「すべての宗教に対して中立的で、あらゆる聖職者から独立している」に近く[17]、どちらかと言えば受動的な姿勢であるのに対して、フランスにおけるライシテはその成立過程に根ざした概念であり、, ライシテというときには、受動的で静かな中立性よりも、能動的かつ確信的に、公私を分離して公的な領域から宗教的な要素を排除するという姿勢を含意する。価値にかかわる宗教・信仰の要素を持ち込まないことによってこそ、各人の信教あるいは良心の自由が確保されるという発想にほかならない。公教育はいかなる教義をも特別扱いしてはならず、また教義によって知性がゆがめられることを許してはならない。ここに、革命以来の理性主義の表出を看取することができる。フランスは以後、このライシテを国家的原則として掲げ現在にいたる[19]。, 20世紀初頭(特に政教分離法の成立時)には、ライシテには、まずもって、共和主義的価値を脅かすカトリック教会の影響を排除しようという意図があったが、やがて、伝統的なカトリックとは直接関係のない様々な過激な思想(新たな全体主義、セクト、イスラム原理主義をはじめとする宗教的原理主義等)が生まれ、ライシテはより複雑で幅広い文脈に置かれている。, ライシテの起源はフランス革命 (1789-1799) にある。フランス革命では、共和制への従属を拒否し、ローマ教皇への忠誠を誓ったカトリック聖職者の多くが処刑された。統領政府期の1801年、ナポレオン1世とローマ教皇ピウス7世の間でコンコルダ(政教条約)が結ばれ、カトリック教会、プロテスタントのルター派教会とカルヴァン派教会、およびユダヤ教会の4つの教会が公認され、信教の自由が認められた。その後、復古王政ブルボン朝 (1814-1830) においてカトリックが再び国教として復活し、七月王政 (1830-1848)、第二共和政 (1848-1852)、第二帝政 (1852-1870) の期間を通じ、第三共和政 (1870-1940) の初期に至るまで、カトリック勢力と反教権勢力の対立が続いた。これは特に、公立学校の創設に関する1833年のギゾー法(フランス語版)、公立学校の発展・推進および国家による私立学校への財政援助について定めた1850年のファルー法(フランス語版)の成立などの学校教育制度の確立に至る経緯において、カトリック教会派と、反教権運動の旗頭ヴィクトル・ユーゴー (1802-1885)、ジュール・ミシュレ (1798-1874)、エドガー・キネ(フランス語版)(1803-1875) らとの対立として顕在化した。さらに、1850年代には「自由思想家」と呼ばれる、急進的な反教権運動が生まれ、両派の闘いは特に「公立学校」対「私立学校」という問題に集約されるに至った[9]。, フランス革命により、アンシャン・レジーム下の特権的・身分的支配統治構造が解体された結果、権力を一元的に掌握する集権的な国家構造が構築された。教会などの「社団」的身分編成原理が破壊されたため、各個人をつなぐ紐帯が失われた。革命後に権力を掌握した人々は「一にして不可分 (une et indivisible)」というスローガンに象徴されるような近代国民国家 (État-Nation) の樹立を目指した。そして権力者たちはその紐帯の役割を教育に担わせようと考えた。アンシャン・レジーム下で支配的なイデオロギー装置であった教会を駆逐することには二つの意味があった。第一に、教会に従属していた成人を解放することにより、さらにその上の王制への従属を破壊することを目的とした。第二に、子供の教育に対する教会からの影響を排除することを目的とした。これらの目的を達するために教育は国家の管掌事項となった。つまり、教育は共和制国家を形成する目的で行われるようになった[20]。アンシャン・レジームが崩壊する過程において、1789年8月の封建的特権の廃止後に採択された人権宣言(人間と市民の権利の宣言)により、思想・良心の自由、法の下の平等をはじめとする普遍原則が確立された。1958年の第五共和政憲法の前文ではこの人権宣言が憲法の一部をなすと宣言されている。, なかでも、人権宣言第10条の「何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の秩序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない」という信教の自由が第五共和政憲法でも保障されている[21]。, 19世紀に、ライシテに関する一連の法律が施行され、次第に国家とカトリック教会とのつながりが断たれ、共和主義的普遍主義の原則に基づく新たな政治・社会規範が確立されていった[22]。こうした過程は、教義と切り離されたより広義の近代化 ― 政治・社会基盤(三権分立、国家組織、教育、非宗教的な生活習慣、法律や道徳観など)の見直しや改革を含む民主化 ― の一環であり、とりわけ第三共和政においては、公教育相ジュール・フェリーが義務・無償制とともに公教育の非宗教化を粘り強く推し進め、義務制を定める 1882年3月28日の法律[23]において非宗教性をも明文化するに至った(ジュール・フェリー法(フランス語版))[19]。これを補う1886年10月30日の「ゴブレ法(フランス語版)」[24]は、特に第17条で公立学校の教師はすべてライックでなければならないと規定している[25]。また、これらの法律により宗教道徳教育を排して道徳・公民教育が導入された[26][27]。1880年代のジュール・フェリー法の立案・執行の任にあたり、1887年に『教育学・初等教育事典』を編纂し、自ら「道徳」の項目を執筆した自由主義的プロテスタントのフェルディナン・ビュイッソン (1841-1932) は、「ライックな信仰」という概念により、教権派の「神なき学校」という批判に対抗し、ポール・ジャネが提出した道徳教育計画(国が与えるべき、宗教の教義から独立した道徳規範)に基づく学習要領を発表した[28]。, 1894年に起きたドレフュス事件は教権派と共和派の対立と結びつく大問題となった。ドレフュス擁護派は1898年に「人権同盟」を結成し、政教分離支持・反教権主義の立場を表明した。さらに1899年6月22日に急進派の支持を受けたピエール・ワルデック=ルソー内閣が成立。1901年7月1日のワルデック=ルソー法(結社法)第13条により、修道会は3か月以内に認可を得ることが義務付けられた。1902年の選挙でも左派の社会党・急進党が勝利し、エミール・コンブが首相に就任。コンブは1902年の7月には約3千の無認可の修道会系学校を次々と閉鎖に追い込み、約2万人の修道会員、54の修道会がフランスから追放された。また1901年法に基づく認可申請もその多くが却下された。ビュイッソンは「人間と市民の権利の宣言の文言や精神を傷つけることはできない」として「修道会の教育の自由」を否定した[28]。1904年7月7日の法律第1条で「フランスではあらゆる段階、あらゆる種類の修道会による教育は禁止される」と規定され、1904年7月29日、フランスとローマ教皇庁との国交が断絶された。, こうした一連の非宗教化政策の結果、1905年に政教分離法(ライシテ法)の成立を見ることになった。, 1905年の政教分離法は人権宣言第10条の精神を受け継ぎ、第1条に「フランス共和国は思想・良心の自由を保障する。フランス共和国は、以下に述べる公の秩序のための制約を守る限りにおいて、信仰実践の自由を保障する」とある。さらに第2条には、「フランス共和国はいかなる宗教も公認せず、俸給を与える又は助成金を支出することはない。したがって、本法(政教分離法)の布告後、(1906年)1月1日以降、信仰実践にかかる費用は、国家、県、コミューン(市町村)の予算から排除される」と書かれている[13]。, 宗教と切り離された「ライックな共和国」という概念は、1946年憲法で明確に規定され、1958年憲法に受け継がれることになった。, フランスは不可分で、ライックで、民主的で、社会的な共和国である。フランスは、出自、人種、宗教の区別なく、全市民の法の下の平等を保障する。フランスはすべての信念を尊重する(1958年憲法第1条)。, 1980年代の終わり頃からライシテ原則に違反すると思われる出来事が起こり、論争を呼ぶことになった。程度の差はあれ様々な宗教的急進主義の台頭により、文化的少数派の主張に対応した多文化主義的施策が後退を余儀なくされる傾向にあったからである。こうしたどちらかと言えば共同体主義的な主張は文化や政治にも深く浸透していたため、事態はいっそう困難であった。問題は、こうした施策が、たとえその一部においてであっても、果たして解放に導くものであるか否かであった。, 多文化主義や共同体主義の問題以外に、同じく宗教的急進主義との関連でプロゼリティスム(執拗な宗教勧誘)[29]の問題があった。これは学校教育、医療、共和主義の原則に基づく様々な活動における共生(共に生きる)という理念に反するものである。これについては、現在では、少なくとも公共サービスにおいては(他者の権利や自由を侵害するか否かにかかわらず)ライシテ原則と国家の中立性を守るためにプロゼリティスムは禁止されているが[30]、政府はこうした事態に直面してその都度、共和主義の立場からライシテ原則を守るために委員会を設置して対策を講じてきたが、一方で、この結果、ライシテ原則自体が変質を被ることになった。, ジャン・ボベロによると、1989年まではカトリック教会との対立においてライシテが論じられてきたが、これ以降はイスラム教がライシテをめぐる議論の焦点となり、フランスにおけるイスラム教の拡大がライシテを「深いところで変える」ことになった[31]。ボベロは1989年を「冷戦の終結とイスラムという新たな政治的恐怖の誕生」の年と位置づけている。, 1989年は、イラン・イスラム共和国の指導者ホメイニ師がファトワを発して幕を開けた(2月)。作家サルマン・ラシュディが『悪魔の詩』のなかで預言者ムハンマドを冒涜したとの理由で死刑を宣告されたのである。この年の終わり(11月)には、資本主義の西洋と共産主義諸国を分断する「鉄のカーテン」を象徴していたベルリンの壁が崩壊する。東西の対決とそれにともない双方が抱いていた恐怖に代わり、「政治的イスラム」という新たな恐怖が生まれた。…一部のイスラムに対する恐怖が支配的な趨勢となるのは、特に2001年にアメリカで9・11のテロが起きてからのことである[32]。, 一方、フランス国内でも、1989年秋、パリ近郊のクレイユ市でイスラム系の2人の女生徒がスカーフを校内で着用していることを理由に、教師より教室に入ることを禁止されるという事件が起きた。, また、歴史・政治学者ラファエル・リオジエ(フランス語版)は「イスラム化監視機構」などの反イスラム化団体が生まれた2003年にライシテの概念が大きく変わったと指摘する[33]。この年、ジャック・シラク大統領の下、ジャン=ピエール・ラファラン首相がフランソワ・バロワン議員に報告書の作成を求め、これに対して同議員が公立学校におけるスカーフ着用の禁止を提案する「新しいライシテ」と題する報告書を提出した[34][35]。, ジャン・ボベロはこの「新しいライシテ」は1905年のライシテ法の精神 ― 反教権主義、反共同体主義 ― を受け継ぐものではなく、宗教戦争やフランス革命よりはフランス植民地主義の時代につながるもの、「超国家的な政治的イスラム」よりは「グリーバリゼーションの地政学」に対応したものであり、「二つのフランスの争い」を存続させることになったと指摘する。また、政治よりはメディアが作り上げた「事実」に基づくものであり、宗教に対して過度に寛大な「アングロ=サクソンの共同体主義」に「例外的な」フランスのライシテを対置させ、さらには、「ライシテの右傾化」(ナショナル・アイデンティティの方向への傾斜)を招き、とりわけ極右がライシテ支持派を僭称したことが左派内に対立を生むことになったと分析している[31][36]。, また、法学者のステファニー・エネット=ヴォーシェとヴァンサン・ヴァランタンもバロワン報告書「新しいライシテ」は1905年のライシテ法により保障された信教の自由に反する「監視のロジック」であり、「宗教における目立ったもの、他と異なるものを排除しようとしている。共に生きるという理念を蝕むばい菌のように思われている宗教を「殺菌する」ためにライシテを利用しているのだ。市民は公共の場に入るときに、他と共有できないものは捨てなければならない。この広義のライシテは右派だけでなく左派も支持しているが、1905年のライシテ法に基づくと言いながら、実はこれに違反するものである。政治的言説においてもメディアにおいても、まるで自明のことのように、ライシテの理念が脅かされていると言う。まるで、ライシテが国家の義務ではなく、一つの社会現象であるかのように」と批判している[37]。, 実際、このバロワン報告書を受けてジャック・シラク大統領が、ベルナール・スタジ(フランス語版)を委員長とする「共和国におけるライシテ原則適用に関する検討委員会」(スタジ委員会)を創設した。さらに、スタジ報告書[38]を受けて、非宗教の公立学校における「目立った」(ostensible)宗教的標章の着用を禁じる2004年3月15日付法律[39](「宗教的標章規制法」:日本語で「宗教シンボル禁止法」と表現されることが多いが、「宗教的シンボル」または宗教的標章が全面的に「禁止」されたわけではない)の成立を見ることになった。既に1989年11月に国務院は公立学校における宗教的標章の着用は、それが「これ見よがし」(ostentatoire)なやり方でなされなければ、ライシテと両立可能だという声明を出していたが[40]、ジャン・ボベロは「これ見よがし」(ostentatoire)から「目立つ」(ostensible)へ用語の変化に「ひとつの変質が隠されている。もはや振舞いだけを違法とするのではなく、いくつかの標章そのものが、目立ったやり方で宗教的帰属を表明するものとされるようになったのだ。ものの見方が本質主義的になっている」[5]と指摘する。, こうして「新しいライシテ」により共和国の基本原則であるライシテと国家の中立性において本質的な変化が生じ、その主体も国家から市民社会へ、そして公務員から公共の場の利用者へ移行し[41][42]、ライシテとフランス社会の「世俗化」との区別が曖昧になった[43][44]。, 今日のフランス公教育はコンドルセ (1743 - 1794) とジュール・フェリー (1832 - 1893) の教育改革に負うところが大きい。フランス公教育の原型となった『公教育の一般的組織化に関するデクレ案』を作成したコンドルセは教育の自由について、まず、親の教育権の保障を挙げ、子に対する教育権は親の自然権の一つであり、国家などの公権力は親の自然権の保障を義務づけられているからこそ、公教育に責任を負うべきであるとした。また、具体的な教育内容については、教義によって知性がゆがめられることのないよう、すべての個人に歴史的・科学的根拠に基づく真理・真実を主たる内容とした教育 ― 知育 ― を提供することの重要性を解いた。さらに、教会の教育への介入の弊害を避けるために、宗教・思想・信条の自由を不可欠の人権として保障した[45]。, 1880年代の第三共和政前半期にジュール・フェリーが行った教育改革は、フランス公教育の方向性に大きな影響を与えることになった。何よりも重要なのは、国民の精神的統合を「自由・平等・友愛」を掲げる「一にして不可分の共和国」のシンボルとして実現するために教会勢力を公教育から駆逐したことであった。フェリーの教育改革では、1789年の人権宣言における自由、平等などの共和国の理念や権利を保障すると同時に、教育の無償制、義務制、そして非宗教性(ライシテ)を保障した[45]。, 1905年の政教分離法(ライシテ法)により確立した「ライックな共和国」という理念は、1946年憲法で明確に規定され、1958年憲法に受け継がれた。公立学校は今日、ライシテの精神を養う場であると同時に、共和国の理念に関する様々な批判の対象にもなった。公立学校におけるライシテの理念は、公的な場において「共に生きる」ことを目指すものであり、憲法に定める思想・良心の自由を保障するために、公的な場における宗教の表明は制限される。当初、この制限は必ずしも一定の基準に基づくものではなく、校則などにより違いがあったが、国民の人権と自由の保護を目的に設立された「権利擁護機関 (Defenseur des Droits)」のドミニク・ボーディ(フランス語版)代表が2013年に政府に対して制限の明確化を要求し、これを受けて、国務院が明確な規定を設けた調査報告書を発表した[46]。「ライシテ監視機構(フランス語版)」[47]が2014-2015年次報告書にこの一部を採用している[48]。, フランス国家は、信仰・信条にかかわらず、全市民に対して無償かつライックな公教育を保障している。第五共和国の「憲法ブロック」(合憲性規範)の一部を構成する1946年憲法の前文第13段には「国民国家は子供及び大人の教育、文化、職業教育の平等な機会を保障する。無償かつライックな全公教育機関・過程を提供することは国家の義務である」と規定されている[49]。, ジュール・フェリーの教育改革による公教育の無償制、義務制、そして非宗教性(ライシテ)の保障、ならびに公立学校の教師の非宗教性(ライシテ)の保障(1886年ゴブレ法(フランス語版))により、公教育におけるライシテは、児童・生徒の思想・良心の自由を保障すると同時に、将来の市民である子供たちが自由に学び、質問し、学習内容に基づいて自ら考えて判断を下し、批判することのできる環境を提供するものである。したがって、公立学校においては、あらゆる共同体主義的又は自民族中心主義的イデオロギーや不寛容なセクト的団体の信条・教義に影響されない環境を確保しなければならない[50]。, 1980年代の半ばに、フランスでは公立学校におけるイスラムのヴェール(ヒジャブ、ブルカ、ニカーブ等)の着用をめぐって論争が生じた。ヴェール着用支持派 ― 一部のイスラム教徒、個人の自由の擁護者 ― は、ライシテは1789年人権宣言の原則である思想・良心の自由を保障するものであると主張し、反対派もまた、ライシテは教育に不可欠とされる中立性と平等を保障するものであるとして、児童・生徒の服装の中立性を訴えた。とりわけ、1989年にクレイユ市でイスラム系の2人の女生徒がスカーフを校内で着用していることを理由に、教師より教室に入ることを禁止された事件が発生すると、識者間でも意見が分かれ、たとえば、哲学者エティエンヌ・バリバールは、「殊に、人種差別とはいえないが、外国人排斥という性質をもったイスラム教徒に対する敵意が兆しとなって現れ始めているときに、共和国の公立学校はいかなる生徒も追放してはならない。なぜなら、在学中こそが、宗教的蒙昧主義から生徒自身が自らを解放する最良の機会であるからだ」と、生徒の追放に反対した[9]。一方、文化人類学者のフランソワ・プィヨンは、これに反対して、「これ見よがしに着用されているイスラムのスカーフは、新たな原理主義者による攻撃の一環をなしている。それは、宗教の影響力から公共の場を保護することを望むわが国のライシテ基本原則に反するものである。少なくとも、校内では、少女たちを性差別的な服従から解放すべきではないのか」と述べた[9]。, また、スカーフ着用反対派の哲学者、作家ら ― エリザベット・バダンテール、レジス・ドゥブレ、アラン・フィンケルクロート、エリザベット・ド・フォントネ、カトリーヌ・カンツレール(フランス語版) ― は、1989年11月に『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール(フランス語版)』紙に掲載した「イスラムのヴェール」と題する訴えで、「自ら考える力を育てるためには、出自の共同体を忘れて、自分とは違うものについて考える喜びを知る必要がある。教師がこの手助けをするためには、公立学校は今後も本来あるべき場、すなわち解放の場でなければならず、宗教が幅を利かせる場であってはならない」と主張した[51]。, リオネル・ジョスパン教育相は国務院に裁定を求め、国務院は、1989年11月27日付で、「表現の自由及び宗教の表明の自由の行使である限りにおいて、ライシテ原則に抵触しないが、宗教的標章が、その性質上、又はこれを個人的に又は集団として着用する条件により、ないしはこれ見よがしな (ostentatoire) 又は権利要求的な性質により、圧力行為、挑発、プロゼリティスム(宗教勧誘)又はプロパガンダとなるおそれがある場合は、かかる標章の着用は許されるべきではない」という見解を発表した[52]。, これを受けたジョスパン教育相は、12月に宗教的標章に関する通達を出し、「生徒は、宗教的信仰を助成するような衣服及びその他の目立つようなすべての標章に注意しなければならない。・・・これについて紛争が起こった場合は、直ちに生徒とその父兄に対して対話を求めなければならない。対話は、生徒の利益のため、そして、学校がうまく機能するために、宗教的標章の着用をやめさせることを目的とする」とした[9]。, こうした議論は以後さらに紆余曲折を経て、バロワン報告書(「新しいライシテ」)およびスタジ報告書(上記参照)、そして最終的には非宗教の公立学校における「目立った」(ostensible)宗教的標章の着用を禁じる2004年3月15日付法律第2004-228号(「宗教的標章規制法」)[39]の成立を見ることになった。この法律は教育法典第L141-5-1条として規定されている。, 公立の幼稚園、小学校、中学校及び高等学校においては、宗教的帰属をこれ見よがしに表わす標章又は服装を身につけることは禁止されている。校則には、処分に先立ち、当該児童・生徒と話し合いを行う旨を明記する[53]。, 「宗教的標章規制法」制定直後、シーク教徒の高校生が学校でターバンを脱ぐことを拒否して退学になる事件が発生した。親から訴えを受けた「差別禁止・平等推進高等機関 (Haute Autorité de lutte contre les discriminations et pour l'égalité)」(通称「ラ・アルド (la Halde)」)は国務院に裁定を求め、国務院は、ターバンは慎ましい標章とは見なされず、このような標章の着用は教育法典第L141-5-1条の規定に違反するという見解を示した[54]。, 一方、1999年にフレール(オルヌ県)の中学生だったイスラム系の女性2人が当時体育の授業で繰り返しスカーフを脱ぐことを拒否して退学になったことについて、欧州人権裁判所に対して訴えを起こしていたが、欧州人権裁判所はトルコおよびスイスにおける同様の判例に基づき、「フランスでは、特に公立学校においては、国民を守ることが最優先事項であり、ライシテは全国民が従うべきフランス共和国の憲法上の基本原則である」として、2人の訴えを却下した[55]。, 児童・生徒の保護者は、公共の場の利用者として、授業その他の活動、学校運営等の妨げにならない限り、かつ、公の秩序を乱さない限りにおいて、服装等については自由である(子供の送り迎えなど)。, ただし、学校行事などの課外活動にボランティアで参加する保護者については、当初、明確な規定がなかった。アリマ・ブームディエンヌ=ティエリ上院議員は、子供の遠足や課外活動への参加を希望するイスラム系の女性らがヴェール着用を理由に参加を拒まれるなどの差別を含み、公務員から差別を受けているとして、問題を提起した。これに対して国土開発担当大臣クリスチャン・エストロジは、「クラス担任教師の責任において課外活動に参加する保護者は、公務を担う臨時職員と同様に、公務員に課される中立性の原則に従う義務がある」と回答[56]。保護者協議会連盟は「(宗教的標章規制)法が適用されるのは、公立学校の児童・生徒のみである」と抗議した。「ラ・アルド」は2007年6月に、「ライシテ原則も公務員の中立性の原則も、ヴェールを着用した保護者が、親として、公立学校の教育活動、課外活動等の公務に協力することを妨げるものではない。原則としてこれを拒むのは、宗教に基づくボランティア活動への参加において差別にあたるおそれがある」という判断を下したが[57]、これに対してさらに、「人種主義・反ユダヤ主義反対国際連盟 (LICRA)」、フェミニズム活動団体「娼婦ではない、服従もしない (Ni putes ni soumises)」、「人種差別SOS」、フリーメイソン「フランス大東社」、「共和国ライシテ委員会(フランス語版)」、「ライック家族連合」などの団体が連名で2007年12月に『リベラシオン』に、「特殊な標章により自らを他と区別する保護者の同伴を認めることは、政治的・宗教的な選択であり、親は子の模範であるという価値観に反する。フランス共和国及びフランスの公立学校は、子供をあらゆるプロパガンダから保護し、育まれつつある思想・良心の自由を守るために、既に一世紀以上にわたって教員・教育職員に厳格な中立性の尊重という義務を課してきた」とする抗議書を掲載した[58]。, 最終的には国務院が2013年12月、課外活動に参加する保護者は、「宗教的中立性を要求される教員などとは別の法的範疇に属する」ため、中立性の原則に従う必要はないが、「かかる保護者が宗教的な意見を表明することができるのは、授業その他の活動、学校運営等の妨げにならない限り、かつ、公の秩序を乱さない限りにおいてである」という見解を発表した[59]。, 2013年9月9日、ヴァンサン・ペイヨン教育相が「ライシテ憲章」を発表した。ペイヨン教育相は前年度、幼稚園から高校までの公立校において非宗教性教育を徹底させる方針を明らかにしており、教育界や世論の賛同を得て憲章作成の運びとなった。「ライシテ憲章」はライシテ原則をわかりやすく簡潔に説明した15条から成る[60][61]。, 公的領域から宗教的な要素を排除し、宗教への服従から国民を解放し、教育、信教、思想・良心、そして表現の自由を確立したライシテは、伝統的な家父長制からの解放を含む女性解放、女性の権利の確立にもつながった。, ライシテ法への道を切り開いたコンドルセは女性のセクシュアリティと精神を無条件に教会の権威に従わせようとした聖職者を非難し、同じくジュール・フェリーは「女性を服従させる者はすべてを服従させる。カトリック教会が女性を排除しなかったのはこのためであり、女性たちから民主主義を奪ったのもこのためだ」とした[62]。, これらの先達の言葉に言及しつつ、スカーフ論争のさなか、フェミニズムの視点からこれを分析し、『共和国を覆うヴェール (Un voile sur la République)』[63]を著したミシェル・ヴィアネス(フランス語版)は、「男性が男性のために作った宗教には常にミソジニーが存在し、女性差別につながった。・・・ライシテは宗教の重圧から女性の身体と精神を解放した」と述べている[64]。, イスラム女性のヴェールについては、一方で「恥じらい」、「名誉」、「男たちの欲望の対象とならぬように努める」、「道徳や伝統、家族の絆、女性の貞節」を表わすとされるが[65][66][67]、他方で、サウジアラビア、カタール、イランなどではヴェール着用が義務づけられており、こうした男性による女性の抑圧、男性への服従から解放されるために「スカーフを脱ぎ捨てる女性」、「スカーフ着用義務に抗議する」女性も増えている[67][68][69]。, こうした状況にあって、フランスの「宗教的標章規制法」については、「イスラム系の少女たちが、イスラム系の家庭やイスラム系の男性の側からの、種々の拘束や差別の犠牲者であるとし、彼女たちをその拘束や差別から解き放つことによって統合を推進することを謳っていた」が、これが果たして真の解放なのか、イスラム系の女性たちが着用を義務づけられている宗教的標章が公共空間で禁じられるなら、「まさしく宗教的性差別によって支配されている共同体的空間に彼女たちを追い返すことになるのではないか」といった議論もある[70][71][72]。, 2004年の「宗教的標章規制法」の後、2010年には「尊厳及び男女平等を侵害する過激な宗教実践はフランス共和国の価値に反する」等の理由により[73]、公共の場におけるブルカの着用を禁止する法案が可決された[74]。, 1989年のスカーフ論争においてスカーフ着用反対の立場を表明した歴史学者、哲学者、作家のエリザベット・バダンテールは女性を母性から解放した書『母性という神話』[75]で知られるが、彼女は「ライシテなくしてフェミニズムは存在しない」、「個人の自由、女性の自由という問題は、ライックな国家の絶対的中立性との関連において論じられなければならない」と主張している[76]。エリザベット・バダンテールはライシテについて一貫した姿勢を貫いており、H&M、ドルチェ&ガッバーナなどのブランドがイスラム教徒女性向けのコレクションを発表したときには[77]、ボイコットを呼びかけ[78]、また、特に英米から抗議が殺到したフランスのブルキニ騒動についても、「女性が何を着るのか、決める権利は誰にもない」と主張するロンドン市長サディク・カーンとは逆に[79]、バダンテールは、(一部の地方自治体によるブルキニ禁止はフランスにおける一連のテロ事件の直後のことであったことは別としても)イスラム原理主義者らの女性に対する「絶対的無関心」と「(男女を)分けようという意思」のあらわれである以上、ブルキニを着用するということはこれに従うことであり、「女性に対して公共の場で好きな服装をする権利を与えた1905年のライシテ法に違反する」と主張している[80]。, ジャン・ボベロが指摘するように、特に政治的イスラムの台頭により、ライシテをめぐる論争が生じ、スカーフ論争、ブルキニ論争、そして表現の自由をめぐる論争として表面化した。さらにはフランスのライシテ、普遍主義を、「アングロ=サクソンの共同体主義」に対置させる議論に発展し、フランス左派の分裂につながった。「これは、ある意味では、差別に対して「どのように闘うか」という立ち位置の違いであり、一方は普遍主義の立場からライシテを熱心に擁護し、他方は共同体主義の立場からこれに疑義を投げかけている」[81]。エリザベット・バダンテールのように「普遍主義とライシテを唱える左派は、出自、宗教、性別、性的指向などにかかわらず、万人の平等を目指している。反人種差別と反全体主義を唱え、ナチズムのイデオロギーと民族大量虐殺政策に反対する。フランス革命の標語「自由、平等、友愛」、理性の哲学および解放の理念を掲げ、支配に反対するマイノリティの連帯を求め、さらには、宗教とアングロ=サクソン流の宗教的共同体主義に疑義を投げかけている」。これに対して、共同体主義を唱える左派は、「理性と解放の理念に疑義を投げかけ、とりわけ解放の理念は「文明の使命」[82]の追求であると考えている。植民地主義とポストコロニアル的思考に反対を唱え、特に後者はイスラム教に対するあらゆる批判的言説ないしはライックな言説に共通する思考であると言う」。また、「(啓蒙主義の)ヴォルテールよりはむしろ(植民地主義批判の)フランツ・ファノンであり、支配者・被支配者や蒙昧主義に対抗するライシテではなく、植民者の子孫か被植民者の子孫かという図式で論じている。こうした共同体主義的発想は、必然的にマイノリティ間の対立を生む」[81]。, 共同体主義を唱える左派はしばしば「イスラム左派(フランス語版)」[7][8]と呼ばれ、イスラム学者のタリク・ラマダン、哲学者のアラン・バディウ、社会学者のエマニュエル・トッド、ウェブ新聞『メディアパルト(フランス語版)』創設者のエドウィ・プレネル(フランス語版)、そして「イスラム左派」のフェミニスト活動家としてはロカヤ・ディアロ(フランス語版)や「共和国原住民 (Indigènes de la République)」のウーリア・ブテルジャ(フランス語版)の名前が挙げられる[83][84]。ブテルジャは、統合の概念に批判的な立場から、「統合には自分の人格を「ケルヒャー」で洗浄しなければならないし、自らの文化を否認し、共有された市民の理想像に相応しい態度を取らなければならない」と主張する[85]。宮島喬はフランスにおける「共同体主義」を「民族コミュニティが、排他的にそのアイデンティティや文化の承認を要求したり、なんらかの目的に対して利益集団的に行動したりする傾向」と定義しており[86]、共同体主義だけでなく、人種主義、反ユダヤ主義、ホモフォビアとして非難されることが多く[87][88][89]、「マイノリティだが影響力の強い」左派とされる[78]。, イスラム左派は対立するライシテ・普遍主義左派をしばしば「イスラモフォビア」だとして非難するが、バダンテールは、フランス人はたいてい、「イスラモフォビアだと非難されることを極度に恐れているが、イスラム左派(のフェミニスト)は(相手にイスラモフォビアの烙印を押すことで)イスラム過激派に武器を提供しているのだ。『共和国法は女性を含むすべての国民に適用されるべきだ』と言う勇気のある人々をイスラモフォビアだと攻撃するなど、言語道断である」と抗議している[78]。, 上記のように、「アングロ=サクソンの共同体主義」とフランスのライシテ、またはフランス左派内の共同体主義と普遍主義(ライシテ)を対置させ、対イスラム教徒を中心とするフランスの移民政策の問題として論じられることが多いが、一方で、こうした図式に収まらない移民のフェミニストでかつライックな活動家として、モロッコ生まれの精神分析家で女性活動団体を立ち上げたイプティサム・ラシュガール(フランス語版)、ギニア生まれで女性器切除反対運動を起こしたディアリアトゥー・バー (Diaryatou Bah)、モロッコ生まれでライック・反人種主義・反リベラリズムのフェミニスト団体を設立したファティマ・ベノマール(フランス語版)、イラン生まれで「思い切ってフェミニズム (Osez le féminisme !