翌七五年二月一三日、アンジュー公アンリはランス大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Reimsで戴冠式を挙行して仏王アンリ三世Henri III(在位一五七四~八九)となり、その直後にはギーズ家の同族にあたるメルクール公ニコラNicolas de Lorraine, duc de Mercœurの娘ルイーズ・ド・ロレーヌ・ヴォーデモンLouise de Lorraine-Vaudémontと結婚している。しかし、翌年始め、ついに宮廷からの脱走に成功したナヴァール王アンリとコンデ公アンリが再びユグノー派に改宗して指導者に復帰した。また、国王夫妻に世継ぎが生まれなかったことで王位継承者の如く振る舞いだした王弟フランソワがドイツのプロテスタント諸侯の援軍を得てパリ進軍を行ったため、アンリ三世はやむなく「ボーリュー勅令」Édit de Beaulieu (五月六日所謂「王弟殿下の講和」)を発してユグノーの要求をほぼ全面的に受け入れた。すなわち、サン・バルテルミ事件における犠牲者の名誉回復や各高等法院における「新旧両派合同法廷」の設置、さらにはユグノーの「礼拝の自由」がパリ及び国王が滞在する町以外の全ての都市と場所で身分の区別なく認められたのである。  一五二八年、モンテーギュ学寮を卒業して文学士の学位を得たカルヴァンは、オルレアン大学Universite d'Orleans法学部に進学する。カルヴァンはパリ時代から聖書研究を始めていたが、ドイツ人教師メルキョール・ヴォルマールMelchion Wolmar(一四九六~一五六一)の指導を受けてからはギリシア語原典を利用して学ぶようになった。これは、教皇レオ一〇世Leo X(在位一五一三~二一、メディチ家)に破門され、 神聖ローマ皇帝カール五世Karl V(在位一五一九~五六)から帝国公民権を剥奪されたルターが、ザクセン選帝侯フリードリヒのヴァルトブルク城に匿われている間に『新約聖書』(一五二一年)・『旧約聖書』(一五二三~二四年)をドイツ語に翻訳したのと同じで、カルヴァンもまたカトリック教会が使用しているラテン語訳聖書を信用できなくなっていたからである。また、 教師のヴォルマールはギリシア語聖書研究の手引きをすると同時に、ドイツにおける宗教改革の情報をもたらした。ただし、カルヴァンのオルレアンでの生活は短く、翌二九年にはベリー地方のブールジュ大学Bourgesへと移っている。ブールジュはゴシック建築のサン=テチエンヌ大聖堂(ブールジュ大聖堂Cathédrale de Bourges, 一一九五~一二五五年建造)が有名で、カトリック世界の重要な都市であった。このブールジュ大学には恩師のヴォルマールも転勤し、引き続き師弟の研究生活が継続された。 フランス:カトリック83-88%、プロテスタント2%、イスラム教5-10%、ユダヤ教1%、無宗教4% ドイツ:プロテスタント、カトリック各34%、イスラム教3.7%、その他・無宗教28.3% 世に反対されたことに立腹し、翌年議会の協賛を得て国王至上法(首長法)Act of Supremacyを定め、国王を最高の長とするイングランド国教会Church of Englandを成立させた。その後、一五三六年、三九年には修道院を解散させ、ローマ派教会や修道院の土地・財産を没収してジェントリ(郷紳)gentryに売却している。ヘンリ八世は、再婚した王妃アン・ブーリンAnne Boleyn(エリザベス一世の生母)を反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪でロンドン塔に幽閉したうえ斬首刑とした(一五三六年五月一九日)後、3度目の結婚相手に選んだのが前の二人の王妃に仕えていたジェーン・シーモアJane Seymour(エドワード六世の生母。産褥死)という女性であった。ヘンリ八世はその後も、アン・オブ・クレーヴズAnne of Cleves(一五四〇年結婚、同年離婚)、キャサリン・ハワードKatherine Howard(アン・ブーリンの従姉妹、一五四〇年結婚、一五四二年離婚・刑死)、キャサリン・パーCatherine Parr(一五四三年結婚)と続けて不幸な結婚を繰り返す。そして、シーモア家はジェーンが唯一の嫡子エドワードを産んだことで王室に深く関与することに成功する。  やがて一五三五年二月になると、フランソワ一世とスレイマン一世は、宗教の違いを乗り越えて共通の敵「神聖ローマ帝国」と対決することにした。すなわち、オスマン帝国が領内に住むフランス人に対して、 非イスラーム教徒であるにもかかわらず通商の自由や治外法権などを認める〈カピチュレーション〉capitulationという特権を与えたのである。その結果、イタリア戦争第三戦(一五三六~三八年)はフランス優位のうちに「ニースNiceの和約」(一五三八年)を結ぶことができ、もはやプロテスタントに甘い顔を見せる必要がなくなったフランソワ一世は一転して厳しい弾圧に乗り出した。一五三八年、一五三九年、 一五四〇年と連続して勅令が発せられ、一五四二年の「出版物検閲に関する勅令」ではカルヴァン著『キリスト教綱要』の写しを二時間以内に破棄することを命じ、一五四四年二月一四日にはノートルダム大聖堂の前庭でエティエンヌ・ドレによって印刷された『キリスト教綱要』が焼却され、七月一日の勅令では『キリスト教綱要』を高等法院に差し出さなかった者を絞首刑に処することを告げている(八月一九日には禁書目録が発表された)。また、一五四六年四月一七日ルーアン高等法院に異端を裁くための特別委員会が創設され、フランソワ一世が逝去してまもない一五四七年一〇月八日にはパリ高等裁判所内に火刑裁判所が設けられた。  ところでサン・バルテルミ事件以後、ユグノー派は北部やロワール川流域において多くの亡命者や改宗者を出したが、この頃、宗教戦争は新しい段階に突入していた。従来のユグノー派は「礼拝の自由」が保障されることを願って王権を尊重してきたが、サン・バルテルミ事件という残虐な裏切り行為を知ったいまとなっては、王権に対する淡い期待も失われてしまったからである。ユグノーとして残った人々の中には『フランコ・ガリア』の著者オットマンHotmanのように「暴君放伐論」monarchomachia(人民は暴君に服従する義務はなく、その殺害も許されるとする反君主制理論)を主張する過激派も現れ、彼らは密かにカトリーヌの末子アランソン公フランソワHercule Françoisに接近し、一五七四年二月、ナヴァール王やコンデ公を宮廷から奪還しようとして失敗している。ほぼ同じ頃、北西部のバス・ノルマンディやポワトゥー、南部のローヌ渓谷などでもユグノー派が蜂起している。一方、パリなど大都市の内部では、都市商人層や高等法院官僚などを中心とするカトリック穏健派の間に新旧両派の融和を模索する集団(ポリティーク派Politiques)が台頭し、宗教問題よりも政治的配慮を優先する主張を展開して次第にギーズ家一門と対立するようになった。同年九月、アランソン公が宮廷から脱出してポリティーク派に加わり、東からはプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハンJohn I, Count Palatine of Zweibrückenがシャンパーニュ地方に侵入してきた。そして一一月には、ポリティーク派のラングドック地方総督アンリ・ド・ダンヴィル(モンモランシ大元帥の次男)が南仏のユグノー派と結託して王室に反旗を翻したため、フランス国内は大混乱に陥った。 )の血を引くナヴァール王アンリが王位継承者として選ばれた(註㉒)。何故なら、ブルボン家の祖であるクレルモン公ロベールRobert de Clermontはルイ九世の六男であり、フィリップ三世Philippe III(在位一二七〇~八五)の末弟だったことでカペー家男系支流の一門となっており、ナヴァール王アンリはその家長であった。しかし、当時の彼は従弟のコンデ公アンリとともに教皇から破門された身にあり、ユグノーとしての信仰を捨てる意志のないことを表明していた。そこで同年一二月、宿敵ギーズ公アンリはカトリック同盟を代表する形で西王フェリペ二世と「ジョアンヴィル条約」Joinvilleを締結し、「異端」との戦争の準備をした。その当時、フェリペ二世は一五八〇年にスペイン=ポルトガル同君連合を成立させてヨーロッパ各地のカトリック支援を強化しており、彼としても渡りに船だった。一五八五年三月、ギーズ公アンリはピカルディ地方のペロンヌPéronneで旧教同盟を再結成し、ナヴァール王アンリの仏王位継承権を否定する宣言を発した(三〇日)。フランス王位への野心に燃えるギーズ家一門を中心に、彼らと保護=被保護関係で結ばれることによって特権回復や全国三部会の定期的開催を求める貴族たち、急進的なカトリック聖職者たちに加えて、多くの都市住民が自生的な組織をつくってギーズ家側に加わった。パリの場合、聖職者や司法役人、富裕商人層を中核とするグループが、パリ一六区内部とりわけ民兵組織の中に密かに根を張るようになった。二年後の六月、リヨン、オルレアン、ボルドー、ブールジュ、ナントなど多くの都市がパリの旧教組織と同盟関係を結んだ。こうしてユグノー戦争は、 国王アンリ3世(ヴァロワ朝)、ナヴァール王アンリ(ブルボン家)、ギーズ公アンリ(ギーズ家)が三つどもえの抗争を展開する「三アンリの戦い」という段階へと移行した。   じたる一切の事件は、起らざりしものとして、記憶より抹消せらるべし。なお、検事総長その他、公人・私人を問わず、なにびとといえども、これらの事件に関し、いかなる時、いかなる機会にあっても、これを陳述・訴訟・訴追することは、いかなる裁判所におけるを問わず、これを認めない。 【ホンシェルジュ】 小規模な反乱からヨーロッパ全土を覆う国際戦争へ発展し、最後にして最大の宗教戦争といわれる「三十年戦争」。この記事では戦争の経緯や勝敗などの概要をわかりやすく解説します。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。 ユグノー(フランス語: Huguenot)は、フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)またはカルヴァン派。フランス絶対王政の形成維持と崩壊の両方に活躍し、迫害された者は列強各国へ逃れて亡命先の経済を著しく発展させた。その活躍は、まずとびぬけてイギリスでみられたが、ドイツでは順当な規模であった。  しかし、 ファレルはついていた。カルヴァンがジュネーヴの町にやってきたからである。ファレルは早速、カルヴァンを訪ね、改革への手助けを懇願した。そしてファレルの熱意に感動したカルヴァンは、自らの予定を破棄して協力を約束したのである。バーゼルでの事務手続きを済ませたカルヴァンがジュネーヴで活動を開始するのは八月に入ってからで、彼の仕事はサン=ピエール教会La cathedrale protestante Saint-Pierre de Genèveの聖書講師であった。やがて一〇月になり、カルヴァンは新旧両派が激論を交わしていたローザンヌ会議Lausanneにファレルの随員として出席している。会議はファレル側が不利であったが、やがてカルヴァンの登場で新教徒側の勝利となり、ローザンヌも宗教改革に取り組むことを決意した。  その当時、ユグノー派の首領コリニー提督は国王シャルル九世の信任を得てカトリック教徒を援助する西王フェリペ2世を討とうとしていた(カトリーヌもコリニー提督に多額の一時金と年金を与えて国王諮問会議に復帰させた)。しかし、カトリーヌは新旧両教徒の均衡の上にこそ王室の安寧があると考えて旧教徒の首領ギーズ公アンリとも結んでいた。ナヴァール王アンリとマルグリットの結婚式には多くのユグノー派貴族も出席していたが、式の三日後、コリニー提督はルーヴル宮殿から宿舎へ戻ろうとしてプーリー通り(現在のルーヴル通り)の教会参事会員ヴィルミュールの屋敷にさしかかったところ、狙撃犯モールヴェールに銃撃を受けるという事件が発生した。提督は二発の銃撃で右手の人差し指を吹き飛ばされ、 左腕の肘を打ち砕かれた。狙撃犯は建物の裏手に用意していた馬に乗って逃亡しており、事件の首謀者が誰であったかは未だに確定してはいない。明らかなことは、王母カトリーヌに説得されたシャルル九世がユグノー派弾圧を決意し、市長ル・シャロンに命じてパリ市の城門を閉じてその鍵を保管し、セーヌ川の舟を引き揚げさせたということである。また、市民軍を武装させて広場、四つ辻、河岸の警護に当たらせ、 市庁舎前には狙撃兵を配置している。  さて、スペイン王家の血を引くメアリ一世は敬虔なカトリック信者であり、彼女が結婚相手として選んだのは従兄の子にあたる西王太子フェリペ(後のフェリペ二世)であった。しかし、フェリペはメアリ一世より一一歳も年下であり、カトリックの宗主国のような国家の王太子であったから、この結婚には反対する者も多かった。だが、一五五四年七月に結婚式が挙行され、フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられた。翌五五年、メアリ一世は父ヘンリ八世以来の宗教改革を覆し、イングランド王国をカトリック世界に復帰させた。彼女はプロテスタントを迫害し、女性や子どもを含む多くの人々を処刑したことから「血まみれのメアリ」Bloody Maryと呼ばれている。一五五六年、夫フェリペはスペイン王フェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)として即位するために本国に帰国し、一年半後にはロンドンに戻ったものの、わずか三か月後には再びスペインに帰国して二度とメアリと会うことはなかった。メアリ一世は五年余の在位の後、一五五八年一一月一七日、卵巣腫瘍が原因で他界した。  この「自由意志論」を継承したのが、ルターと同時代に生きたヒューマニスト(人文主義者)のエラスムスErasmus(蘭、一四六九~一五三六)である。一五二四年、 エラスムスは『自由意志論』De lebero Arbitrioのなかで自由意志の役割を肯定し、人間の努力によって救済が神から与えられることを認めなければ一切の道徳が成立しないと主張した。したがって、ピコやエラスムスの自由意志論は、アウグスティヌス以来の系譜を引き継ぐものであった。ところが翌二五年、ルターはエラスムスの考えを真っ向から否定する『奴隷意志論』Deservo Arbitrioを発表し、救済はあくまでも神の恩寵によるものであり、自由意志は全く無力だと断言した。人間の運命は神に予定されており、自由意志に基づく努力によって何かになれると考えるのは神に対する冒涜に他ならない、としたのである。この論争の発端はノエル・ベダを中心とするパリ大学神学部がエラスムスに圧力をかけてルター批判を行わせたことに端を発するが、両者の相互批判は互いの誤解も手伝って水掛け論に終始した。註③ IV, Cambrige, at the University Press, 967, p.470.  また、この時期の農村ではしばらく発生していなかった農民反乱が頻発するようになる。農民反乱が発生したのはフランス王国の周縁部に多く、魔女狩りが多発した地域と重複するという特徴がある。一五六二年のユグノー戦争勃発以降、軍隊が通過し戦場となった農村では、軍隊による糧食調達や宿営提供という過酷な負担を強いられ、これに黒死病(ペスト)の流行や飢饉が重なる。また、国王は戦争遂行のために重税を課し、地方貴族たちは種籾や家畜までをも奪い去る。そして、社会的混乱は人々を分極化する。ユグノー戦争の時期、とりわけ一五八六年から一六世紀末までの期間は土地の所有権が激しく移動した。東部のロレーヌ地方では、売却された土地の三五%は貴族に、二九%は都市住民に、一三%は聖職者の手に移り、残り一七・五%の農地は富農(領主所領の請負人や富裕な土地所有農民)が買い取ったという。その結果、農村共同体は彼ら富農と貧農(小作人、小屋住み農、農業労働者)との格差が極端に広がり、それが民衆蜂起につながった。一五七八年、プロヴァンスに発生した農民反乱は、翌年ローヌ川流域やノルマンディに拡大し、やがてブルターニュ、ブルゴーニュへと広がった。とりわけ一五九三年、南西部一帯に広まったクロカンの乱Révolte des Croquants(~一五九五年)は約五万人の叛徒が国王に対する反税闘争と反貴族の運動を展開したという。  第⒕条 余の宮廷、イタリアに存する余の所領、およびパリ市ならびにその周辺五リウの領域においては、 改革派宗教の礼拝は、いかなるものも、これを禁止する。ただしイタリアの所領およびパリ市ならびにその周辺五リウの領域に居住する改革派信徒は、本勅令の規定に従う限り、その住居内において追及されることなく、その宗教のゆえをもって、その信仰に反する行為を強制せられることもない。   一五三三年一一月一日、パリ大学総長ニコラ・コップNicolas Cop(一五〇六~?、ギョーム・コップの息子)は大学開講日に「キリスト教的哲学」という演題で講演を行ったが、その内容が極めて宗教改革の色合いが濃厚だったために問題となった。彼はカルヴァンの親友であったことから、今でも講演原稿の起草者はカルヴァンではないかと推測されている。その当時、仏王フランソワ一世François Ier de France(在位一五一五~四七)は教皇クレメンス七世Clemens VII (在位一五二三~三四)とフランス国内の異端撲滅を約束するマルセイユ協定(一五三三年)を締結したばかりであった。パリ大学からの内部告発を受けた国王は直ちに王令を発して、ニコラ・コップを最高裁判所に召喚した。危険を察知した二人はパリを脱出する。カルヴァンは友人ルイ・デュ・ティエが主任司祭をしていたフランス南西部の町アングレームAngoulêmeへと逃げ、シャルル・デスペヴィルという偽名を使っている。また翌三四年にはネラクNérac(四月)を経て故郷ノワイヨン(五月)へ行き、教職禄辞退の手続きをしている。その後、カルヴァンはメスMetzからシュトラスブルクStraßburg(ストラスブールStrasbourg)へと逃亡の旅を続けた。ところが、この年の一〇月、何者かがカトリック教会のミサを罵倒し、パリをはじめブロワ、オルレアンなど多くの都市で教皇やカトリック教徒を偽善者呼ばわりする怪文書をばら撒く事件が発生し、国王の寝室の扉にまで貼られる始末であった。この檄文事件に激怒したフランソワ一世が、即日「異端撲滅令」を発したため、フランス全土では約一カ月間にわたって迫害の嵐が吹き荒れた。パリではエチエンヌ・ド・ラ・フォルジュなど多くの殉教者を出す一方、イグナティウス・ロヨラ等によってカトリック的世界を守るためのイエズス会が結成された(一五四〇年認可)。  ところで一五五五年以降、ジュネーヴ市民はおおむねカルヴァンの教えに信服するようになり、教会と市政当局との関係も格段に良い方向に変化していった。そのため、カルヴァンの関心は次第にヨーロッパ各地の宗教改革、とりわけ祖国フランスの改革へと向けられ始めた。カルヴァンが『キリスト教綱要』を最初に出版したのは一五三六年で、五年後の一五四一年にはそのフランス語版を刊行した。その後、版を重ねるたびにフランス語版も作られていることからも明らかなように、彼の意識からフランスが消え去ることはなかったものと思われる。しかし、当時のフランス=プロテスタントがおかれていた状況は、同じ新教徒であってもジュネーヴや神聖ローマ帝国のそれとは全く異なっていた。先ずドイツでは、ルター派教会が君主権に大きな役割を認めたために世俗権力間の宗教戦争が長く続いていた。アウクスブルク宗教和議Augsburger Reichs- und Religionsfrieden(一五五五年九月二五日)で宗教戦争が終結し、ルター派の信仰が許されたが、この「信仰の自由」は領邦国家や自由都市単位の自由であったために領邦教会制度の発達を促し、国家権力と教会の結びつきを強化する結果となった。その頃、カトリック教会側はトリエント公会議Trient(一五四五~六三年)を開催し、教皇至上主義を確認して結束を固めるとともに、新航路発見と結びついたイエズス会の布教活動で失地回復を果たしていた。こうした対抗宗教改革(反宗教改革)の動きに対して、ドイツにおけるプロテスタント陣営の旗色は悪かった。ルターの晩年は宗派内の論争が続き、彼は道徳不要論のヨーハン・アグリコラJohann Agricola(一四九九~一五六六)を追放し、メランヒトンさえ攻撃している。ルターの死(一五四六年)後は、メランヒトンを範としてプロテスタント諸派の間に平和をもたらそうとしたフィリップ派と、フラキウス・イリュリクスFracius Illyricus(一五二〇~七五)を指導者としてルターの教えの神髄を守ろうとした純正ルター派に分かれて対立するようになった。こうして、 ドイツにおける宗教改革は急速に硬直化し、 カルヴァン派との連携は可能性を失ってしまった。また、 ストラスブルクのブーツァーはカトリックとの和解を目指したが失敗し、一五四九年にカンタベリー大主教トマス・クランマーThomas Cranmer の招きでイングランドに渡った後は、エドワード六世時代の教会改革に携わっている(イングランド国教会は摂政サマセット公の影響で初めのうちはカルヴァン主義的傾向が顕著であった)。 註⑱ ネーデルラントは古くから毛織物業や商業で栄えていたが、商業革命以後はフランドル地方のアントウェルペンAntwerpen(仏語Anvers)が国際商業の中心地となった。一六世紀後半、西王フェリペ二世はネーデルラントにカトリック信仰を強制し、都市に重税を課したため、一五六六年、貴族たちが自治権を求めて決起した。この反乱にカルヴァン派(ゴイセンGeusen)の商工業者が加わってオランダ独立戦争(一五六八~16〇九年)が勃発した。  一六世紀初め、フランス王国ヴァロワ朝の第九代国王フランソワ一世François I(在位一五一五~四七)は、即位直後から神聖ローマ帝国のマクシミリアン一世Maximilian I(在位一四九三~一五一九)とのイタリア戦争(一四九四~一五五九年)に直面していた。一五一五年、ヴェネツィアと結んだフランス軍はミラノに侵攻して教皇庁に圧力を加え、翌一六年には教皇レオ一〇世との間で、フランス国内の大司教・司教・修道院長など高級聖職者の任命に際しては仏王が候補者を指名し、教皇が叙階することを定めた「ボローニャ協定」Concordat of Bolognaを締結した。教会を国家の枠内で捉え、王権の支配下に従属させようとするガリカニスムGallicanisme(国家教会主義)の画期となったのは英仏百年戦争(一三三九~一四五三年)末期に発布された「ブールジュの国事証書」(一四三八年)であるが、このボローニャ協定によって長年続いた聖職叙任権をめぐる争いが決着し、フランス国王は国内教会に対する教皇権の影響力を弱めることが出来ただけでなく、貴族勢力に対しても大きな力を発揮することが出来るようになった。したがって、当時のフランスでは約六〇〇に及ぶ司教座、修道院が国王の権力機構の中に組み込まれており、王権を支える強力な柱としての機能を果たしていたのである。 « 2014年東京大学入試 世界史解答例 | (Not displayed with comment. 世)の結婚式が挙行された。  註⑯ ブルボン家はカペー王家の支流の一つで、一三二七年、カペー朝最後の王シャルル四世からブルボン公に叙せられたルイ一世に始まる。一五〇三年、ピエール二世が没するとブルボン家嫡流(第一ブルボン家)の男系が途絶え、娘シュザンヌと傍系ブルボン=モンパンシエ家 Montpensierのモンパンシエ伯シャルル(シャルル三世Charles III)が結婚して、共同で公位を継承した。しかし、仏王フランソワ一世と対立したシャルル三世の戦死(一五二七年)でブルボン家本流は途絶え、ブルボン公ルイ一世の四男ラ・マルシュ伯ジャック一世から五代目の末裔ヴァンドーム公シャルルCharles がブルボン=ヴァンドーム家Vendômeを興す。そしてシャルルの息子アントワーヌAntoineがナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレJeanne d'Albret(在位一五五五~七二)と結婚してナヴァール王位を獲得し、アントニオ一世(在位一五五五~六二)となった。なお、 ジャンヌ・ダンブレ(西名フアナ三世Juana III 、仏名ジャンヌ三世Jeanne III )は、ナヴァール王エンリケ二世と仏王フランソワ一世の姉マルグリットの娘で、熱心なユグノーであった。 註③ エラスムスについては、沓掛良彦『エラスムス』(岩波現代全書)二〇~七二頁を参照のこと。  カルヴァンは宗教改革への支持を得るために沢山の手紙を書き送っているが、その宛先はヨーロッパ各地で奮闘している改革者のみならず、権力闘争に明け暮れている王侯貴族や無名の信徒と多岐にわたっていた。その結果、カルヴィニズム(カルヴァン主義)Calvinismは一六世紀という新しい時代と結びつき、西欧各地に浸透していく。カルヴァン主義が最初に浸透したのは、一五五〇年代のネーデルラント南部の職人・農民やポーランド、ハンガリー、ベーメンなどの貴族層であり、一五六〇年代以降はフランス、イングランド、スコットランドへと拡がった。カルヴァンの思想ははじめのうち職人・農民という下層民に支持されたが、宗教改革がそれぞれの国家を揺るがす巨大なうねりとなったのは、貴族層の支持を集めるようになってからである。カルヴァンの絶対予定説を信じた人々は、カトリック勢力からの迫害を受けるたびに教派としての団結を強め、長老制度を有する彼らの教会組織が規律と力を高めていった。彼らの組織は都市や集会を単位として編成されたために教派的分裂の危険性が常につきまとっていたが、カルヴァンも(一六世紀前半に現れた宗教改革者の例にもれず)「悪い統治者といえども、これを罰しうるのは神だけだ」と見なしており、カルヴァン派と世俗権力の衝突は回避可能であった。スコットランドでも地方的、国民的な大会が開催されるようになり、そこには下部組織から選出・任命された代表者が出席するようになった。こうして改革派教会は比較的穏健な民衆性を保つと同時に、組織としての規律や、会衆の自発性・活力の維持を両立させることができたのである。その結果、スコットランドでは一五六〇年、ジョン・ノックスJohn Knoxが長老主義教会と「スコットランド信仰告白」をつくり、ネーデルラントでは一五六一年、ギイ・ド・ブレがフランス信条の影響を受けて「ベルギー信条」を作成した。またドイツのプファルツ侯フリードリヒ三世Friedrich III(在位一五五九~七六、ヴィッテルスバッハ家)がカルヴァン派に改宗し、カルヴァンの弟子たちに「ハイデルベルク信仰問答」(一五六三年)を作らせている。こうして西欧各地にカルヴァンの影響を受けた人々が活躍し、彼らは「改革派」(リフォームド・チャーチReformed Church)と呼ばれるようになる。しかし、ヨーロッパの中で経済的先進地域となるネーデルラント、イングランド、フランスなどでは国王と貴族層の権力闘争に新旧両派の教会が結びつき、カルヴァン主義は反権威的自由思想という性格を濃厚にするのである。晩年のカルヴァンは、ユグノー戦争Guerres de religion(一五六二~九八年)ではもちろんプロテスタント側を応援したが、一五六四年五月二七日、波乱の生涯に終わりを告げた(享年五五歳)。註⑪, 第二節 フランスにおける福音主義  パリを追われ、ロワール河岸に逃れたアンリ三世は、ルイ一二世の騎馬像が迎えるブロワ城に入った。城の中庭に立つと、今日でもゴシック風の繊細な飾りをつけた〈ルイ一二世の翼〉とフランス・ルネサンスの傑作とされる〈フランソワ一世の翼〉が残っている。後者の四層になっている塔形螺旋階段を登ると、 かつては二階に王太后カトリーヌの寝室があり、三階にはアンリ三世のそれがあった。九月になってアンリ三世が召集した三部会では平民部会議員がカトリック同盟の意向に沿った発言をし、一〇月には西王フェリペ二世の女婿サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ一世Carlo Emanuele I di Savoiaがピエモンテ地方のサルッツォSaluzzoに侵攻して来た。アンリ三世はこれらの背後にはギーズ公がいると確信した。そこで彼は先手を打つことにした。一二月二三日、会議のために伺候したギーズ公アンリは弟の枢機卿ルイLouis de Lorraineが待つ会議室に入った。彼は国王室隣の書斎で国王が会見を望んでいると告げられたが、それが合図で衛兵たちに襲われたのである。瀕死のギーズ公は王の寝室まで辿り着いて息絶えた(枢機卿ルイも連行中に矛で突き殺された)。その時姿を現したアンリ三世は、「生きていた頃よりも偉そうにして死んでいる」と言いながら、死体を足蹴にしたと言われている。しかし、未だこの大混乱が鎮まらない一五八九年一月五日、病床にあった王太后カトリーヌが逝去したのである(享年七〇歳)。註㉓  新国王シャルル九世Charles IX(在位一五六〇~七四)は僅か一〇歳の幼王であり、対立するカトリック(ギーズ家)とユグノー派(ブルボン家)の調停は必然的に摂政カトリーヌの役目となった。彼女は国務会議を主宰して国政をスムーズに展開するためには宗教的融和策が肝要と考えたが、両者の関係改善を図るのは容易ではなかった。一五六一年一月、カトリーヌはユグノー派に対する「オルレアン寛容令」を出したが、猛反発したギーズ公フランソワは国王軍司令官アンヌ・ド・モンモランシAnne de Montmorencyやジャック・ド・サンタンドレJacques d'Albon de Saint-André 等と反動への道を進むことになる(カトリック「三頭政治」 triumviratの結成)。そして同年九月にはサン・ジェルマン・アン・レー三部会Saint-Germain-en-Layeの中でテオドール・ド・ベーズThéodore de Bèzeを含む一二名の新教徒牧師をポワシーPoissyに招いてカトリック聖職者との会談を主宰したが、一〇月の最終会談で新旧両派は完全に決裂してしまった。それでもカトリーヌは、一五六〇年、六一年と連続して全国三部会を開き、国務会議に高等法院のメンバーを加えた拡大国務会議の討議を経て、翌六二年一月、「サン・ジェルマン寛容令」を発してユグノーの城壁外及び屋内での礼拝を容認した。しかし、同年三月一日ギーズ公がヴァシー村Vassy(シャンパーニュ地方)で開かれていたユグノー派の日曜礼拝を襲撃して七四人を殺害し、一〇四人を負傷させる事件(死者三〇人・負傷者一二〇人や、死者六〇人・負傷者二五〇人という異説あり)を起こしたことが、ユグノー戦争Guerres de religion (一五六二 ~九八)の戦端を開くことにつながった。 註㉓ 磯見辰典編訳二〇五~二四〇頁、田村秀夫『ルネサンス歴史的風土』一九二~一九六頁(中央大学出版部)各参照 註㉗ Robert Muchembled, L'invention de l'homme moderne. 註⑳ Philippe Erlanger, Le Massacre de la Saint-Bartélemy, Paris, 1960.  それに対して、カルヴァンの影響を受けたフランスのプロテスタント教会は、国家権力とは離れた形で、 時には国家権力と対決する中で信徒を増やす努力をし、フランス各地に教会を増設させていった。カルヴァンはジュネーヴで一種の「神権政治」を行ったという誹りを受けたが、彼の理想は政治との繋がりを清算した純粋な教会の創造にあった。一五五九年五月二五日、フランス改革派教会が正式に発足し、カルヴァンが起草した「信条」と「教会諸規定」に基づく全く新しい教会として活動を開始した。しかし、カルヴァン主義を、勃興期にあるブルジョワ中産階級が封建的・教権的支配に対する闘争の一手段として採用した宗教と見なすことは出来ないし、資本主義社会の実践に適合的な宗教と単純に述べるのも無理がある。二〇世紀初め、マックス・ウェーバーMax Weber(一八六四~一九二〇)は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で「カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、ひたすら〈神の栄光を増すため〉のものだ。だから、現世で人々全体の生活のために役立とうとする職業労働もまたこのような性格をもつことになる」と評価したが、一六世紀半ば以降の宗教改革はカトリック教会の支配に対する闘争だけでなく、新旧両派の宗教と結びついた世俗権力相互の闘いという側面を持ったがために、 極めて複雑な展開をする。

無線 規格 コマンド, ドーナツ レシピ 小麦粉, ウォーキングデッド ベータ 死亡, フランス料理 メニュー 用語, 中学生 好きな人 話しかけ方line, ウォーキングデッド リック 子供, 京都 和食 安い, 福岡 南区 パスタ, 2b 海外 人気 なぜ, 短頭種気道症候群 管理 方法, Moussy デニム ショートパンツ,